各支部の大会情報等を掲載しています。

2004

  • 2004/12
  • 明治期の英字新聞-特に創刊期のころのThe Japan Times-
  • 水野 修身

日本人の手によって初めて発行された英字新聞は、明治30年(1897)3月22日に創刊されたThe Japan Times 紙であった。それ以前にどのような英字新聞が発行されていたのかについて、別紙資料「幕末・明治・大正期英字新聞系統図」(発表者作成)により一通り概略を示した。その中で、主要な17紙を挙げ、特に慶応元年から3年にかけて、すでに英人RickerbyによってThe Japan Times という名で英字新聞が出されていたことを取り上げて説明した。この新聞はのちに買収・合併されて、The Japan Mail and Times 紙へと引き継がれ、大正5年まで発行された。明治30年のThe Japan Times 紙が創刊された当時は、The Japan Herald、The Japan Gazzette など有力7紙の英字新聞がすでに競合しており、その中であえてThe Japan Times を創刊したのか、それには当時の日本の世論が背景にあった。要するに、不平等条約を改正して、正しく日本を理解させて、正しい国際関係を日本と世界各国間に樹立すべきであり、そのためには日本人が経営し、編集する英字新聞こそ必要であるということであった。The Japan Times 創刊の詳しい事情は、別紙資料のその創刊号の、当時主筆であった頭本元貞の書いた OUR "RAISON D'ETRE" という社説に述べられている。
創刊当時のThe Japan Times は6ページ立てであり、各紙面の記事構成は現在のそれとは想像できないくらい異なっている。1面と5・6面は全面広告であり、2面では、船便情報、客船の乗船者名簿、郵便船発着情報、汽車の時刻表、ホテルの宿泊者名簿、などの情報と社説などがあり、3・4面で欧米、アジア諸国と日本国内のニュースが登場するが、各記事が何に関する事かを示すいわゆるheadlineが付いていないのが大きな特徴の一つである。なお、The Japan Times の紙面構成への当時の他の英字新聞や邦字新聞からの影響は、若干であるが存在したと思われる。

  • 2004/10
  • 坂西志保編『スプロストン日本遠征日記』について
  • 小玉 敏子

A Private Journal of John Glendy Sproston, U. S. N. は1940年、上智大学からモニュメンタ・ニッポニカ叢書の1冊として刊行された。J. G.スプロストン(1828—1862)はマセドニアン号の上級見習士官で、1854年2月に江戸湾のアメリカ停泊地に到着してから7ヶ月間の日記を残している。ペリー艦隊の隊員の日記、メモ等は艦長を通じて司令長官ペリーに提出することになっていたが、スプロストンの日記は提出されず、香港から友人に託され故郷に送られた。その後、どのような経路をたどったかは明らかでないが、1926年、市場に出たものをアメリカ議会図書館が購入した。1930年、この図書館に日本関係資料の責任者として採用された坂西志保は、スプロストンが「生きて帰ったら訂正する」つもりで、未完成のまま送った105ページの原稿を編集し、誤字・脱字を訂正、日米の文献を参照して詳細な注をつけた。
全体を、江戸湾のアメリカ停泊地、下田訪問、箱館、下田再訪、台湾の石炭埋蔵地帯、台湾の歴史、マニラ港停泊、マニラの休日、マニラ港停泊中のアメリカ船、マニラ葉巻、の10章に分け、スプロストン自身が描いたスケッチ19点も掲載している。最初の「江戸湾のアメリカ停泊地」が一番長いが、この中には、ペリー提督の命令によりマセドニアン号のみが行った父島の調査も含まれている。
米国海軍軍医の父、牧師の娘の母の長男としてメリーランド州ボルチモアで生れたスプロストンが、日本を訪れたのは25歳のときであった。冒険好きな青年は、150年前のペリー一行と日本側応接掛との交渉を近くで見聞きし、異国の自然や人々の生活・習慣を観察して、事実とともに個人的な感想を日記に書きとめている。独自の見解が興味をひく。

  • 2004/9
  • 外国語教授学習法「会読」の系譜(3.まとめ)
  • 茂住 實男

「読むこと」が実用オランダ語・実用英語であった時代に、その学力-蘭書・英書を読む学力をつけたのが文法訳読法であった。すなわち(1)文法知識を身につけさせ、(2)その文法知識と辞書とを用いて原書を訳読する力をつけるという方法であった。この文法訳読法が生徒に、文法知識や訳読の力を効果的につけることができたのは、「「読むこと」が実用オランダ語・実用英語であった時代に、その学力-蘭書・英書を読む学力をつけたのが文法訳読法であった。すなわち(1)文法知識を身につけさせ、(2)その文法知識と辞書とを用いて原書を訳読する力をつけるという方法であった。この文法訳読法が生徒に、文法知識や訳読の力を効果的につけることができたのは、「素読(すどく)」、「会読(かいどく)」という、わが国の伝統的な教授・学習法と結びついたからであった。わが国で開発された唯一の外国語教授学習法と言ってもいい会読の系譜は、次の通りである。

荻生徂徠(儒学)―山県周南(儒学)―永富独嘯庵(儒学)―亀井南冥・昭陽(儒学)―広瀬淡窓(儒学)―坪井信道(蘭学)―緒方洪庵(蘭学)―福沢諭吉(蘭学・英学)

会読方式の教育的価値を強く認識し、それを外国語である儒学(漢学)教育に積極的に導入したのが徂徠である。会読は以後この系譜をたどり、その過程で改良を加えられ、次第に教授学習法として充実してくる。ことに南冥が(1)会読に問者の席(地位)を設け、(2)問者を中心に会読を運営し、(3)問答ごとに成績をつけ、(4)席順を成績順(成績第一位の者が問者の席につく)と定めるなどして、学力本位・実力主義を導入したことで、会読は学力を錬磨するのに一層ふさわしい方法となった。しかしそれは一方で、当時の儒教主義的人間教育を脅かすほど競争主義的となっていった。
会読は広瀬淡窓のもとでさらに組織立てられ、坪井信道へと伝わり、蘭学塾でオランダ語・蘭学の教授法となって定着する。これが緒方洪庵へと伝わり、徹底した学力本位・競争主義の会読となる。その適塾での会読の様子は『福翁自伝』(福沢諭吉)、『松香私志』(長与専斎)によって生き生きと伝えられているが、ほどなくして会読は、開成所や慶応義塾において英語・英学の教授法となる。会読の以後の広まりと成果は周知の通りである。

  • 2004/7
  • 「日露戦争中アメリカで読まれたる日本」
  • 塩崎 智

『NY DAILY TRIBUNE』紙は、日露戦争頃、月曜版に全米七公共図書館(ニューヨーク・ボストン・ワシントン議会・フィラデルフィア・シカゴ・サンフランシスコ・バッファロー)別の貸し出しリクエストが多かった本のリストを掲載していた。当時の図書館は閉架式が多かったので、書籍別の貸し出し請求用紙の数をまとめ、データが得られたのだろう。「ベストセラーとなった」、とか「よく読まれた」という表現を研究的印刷物で目にする。この点に関しては、新聞・雑誌の書評数に頼るしかなかったが、同紙のリストは「論より証拠」とばかり興味深いデータを提供してくれる。その結果、実際、両者が必ずしも一致しない例があることがわかった。
日露戦争中リクエスト第一位のハーン著『日本』が、八位の岡倉著『日本の覚醒』を書評数で圧倒的に上回っていたとは思えない。夏の渡米後の次回は、この点に関して具体的な数値を提供し、さらに考察を深めたいと思う。

  • 2004/6
  • 教誨師花山信勝と"The Way of Deliverance"
  • 勝浦 吉雄

花山信勝(1898—1995、金沢市出身、同市内の宗林寺住職、同時に東大教授--日本仏教史)は選ばれて巣鴨拘置所の日本側初代教誨師(21・2—24・2)となった。3年間の巣鴨体験の記録を日系二世3名が標題のように英訳(Charles Scribner's Sons, N.Y., 1950 )した。同師に見送られた人々は34名(A級7名、B、C級27名うち1名は別の罪名)。A級は戦争指導者、つまり侵略戦争を計画・遂行した責任、平和に対する罪を問われ、B級は捕虜虐待など戦争行為の中での犯罪、C級は人道に対する罪とされる。一般に戦犯という罪名は戦勝国がかぶせたものと言われるが、A級は東条英機、松井石根、板垣征四郎、土肥原賢二、木村兵太郎、武藤章、広田弘毅で、B、C級26名はほとんどが戦時中の俘虜収容所関係で、うち8名は軍属である。天皇制軍隊は上官の命令は即天皇の命令で、その内容如何を問わず絶対服従、戦場での抗命は死刑であり、収容所でも同じ、上官の命令に従ったばかりに絞首刑になった者がいる。B、C級で処刑された人々は大半が30歳前後、人生はこれから、郷里には妻や幼い子もいるのに、その無念は想像を絶する。フィリピンや中国その他での戦犯はここで触れる暇はないが、南京大虐殺、日米の激戦地フィリピンのバターン死の行進などは思い出すだに背筋が寒くなる。処刑者はみな平和のために死んで行ったのだ。
こういう直接の戦争犠牲者を祀ったのが靖国神社で、既述のA級7名に加え、受刑中病死した7名も1978年、福田赳夫首相の時、密かに靖国に合祀された。以後、終戦記念日の8月15日がくる度に内外で問題になっている。中曽根首相の時、側近が練り上げて分祀を考え、遺族会と接触したが、東条元首相の遺族らの強い反対と靖国側の反対で分祀は立ち消えになったという。どこまで続くぬかるみぞ!

  • 2004/5
  • 小説か、自伝か-杉本鉞子『武士の娘』の一考察
  • 釘島 浩子

アメリカの教科書に登場した日本女性がいた。『武士の娘』を書いた小説家、杉本鉞子である。ニューヨーク・タイムズの死亡記事には『武士の娘』が“the most continuously successful book of non-fiction on the Doubleday, Doran list”と書かれている。1931年アメリカン・パブリシング・カンパニ-出版のPioneers in Self-Government の中でワシントン、ジェファ-ソン、ヘンリ-・フォ-ドなど12人のうちの1人として“Etsu Inagaki Sugimoto…World Citizenship”と紹介されている。また、1934年ダブルディ・ド-ラン社から出版された A Book of Great Autobiogrphy のなかでヘレン・ケラ-と肩を並べて鉞子の作品『武士の娘』が載せられている。
フィクションとノンフィクションが入り乱れる謎を明らかにするため彼女の記録を整理し、今後の研究の導入としたい。

  • 2004/4
  • 大仏次郎作「帰郷」の主人公と"cool な日本人像"
  • 茂住 實男

「帰郷」の主人公のモデルとされるのは新田目直寿(1970年8月没)で、ジャカルタ市内でインドネシアの青年に刺殺された。夫人同伴で親友吉住留五郎の墓参に行った帰途。第二次大戦中はジャカルタの日本領事館に勤務、戦後は両国の経済協力計画に参加していた。一時同盟通信社報道班員。 新田目は福島県平市に1904年生まれ、兵学校を卒業、昭和3年海軍士官赤化事件に連座して、中尉で海軍を追放された。その後同盟通信社に入社、さらに南洋倉庫に転じ、バタビヤに駐在日本領事館に転籍した。日本の占領行政に従事、1940年に同郷の住吉の密入国を助けた。住吉は同盟の報道班員の肩書きを持っていたが、海軍の特務機関"花機関"に属し、スパイ活動をし、現地民の信頼を受けてジャカルタ海軍武官府第3課の課長として「独立塾」を設立、独立運動を支援した。戦後オランダ軍との戦闘で死亡。1953年新田目は、住吉の未亡人マサノと結婚。東京都杉並区に遺族とともに住んでいた。
戦後の東南アジア諸国の独立運動を応援した日本人は自己の利害を忘れて、冷静に現地人を支援するために一命を屠した。現在日本のティーンエージャーは、米国や欧州の流行品である化粧品、ファッション、アクセサリイを身につけて渋谷、池袋の繁華街に夜通し群がる。彼らの誇りはポケモン、怪獣、妖精、キチイ-ちゃん人形で、アニメ映画の大ファン。彼らに代表される新しい日本の文化は世界を巻き込んで、各国に大きな影響をおよぼしている。このような新しい日本文化は今後果たして我が国にどのような影響を及ぼすだろうか。明治維新以来外部からもたらされた変化は、この国によい影響を斎したとDouglas McGray氏(カリフォルニア大教授)は主張しているが、明治時代の先覚者英国人外交官アーネスト・サトー公使は決して楽観していなかった。彼の予想通り日本は帝国主義外交に飲み込まれてしまい、朝鮮はその犠牲になったのである。

  • 2004/3
  • マンハッタン号浦賀入津(その2) ク-パー船長の「フレンド」紙上の訪日談
  • 佐渡谷 紀代子

1846年2月2日付けのホノルルの船員向けの新聞『ザ フレンド』に、ウインズロウ博士による"Some account of Capt. M. Cooper's visit to Japan in the whale ship Manhattan"が掲載された。これは博士と旧知の船長が、航海を終えて母港に戻る途中、ハワイ諸島に立ち寄った際に語った話を紹介したものである(3頁強)。
記事の内容は、「漂流民との出会い」から始まる。セント・ピータース島付近で2日間に22人の日本人漂流民を救出した捕鯨船マンハッタン号のク-パー船長は、彼等を日本に送り届けようと江戸へ向かう。「日本に近づく」が荒天のためしばらく海上を彷徨い、やっと浦賀港に「接岸」する。そこに「通訳」の森山栄之助が登場する。船長は彼を「オランダ語を学んできて英語はほんの2、3語しか話せないが、手まねによってより雄弁に語ることが出来た現地の通訳」としている。( Captain Cooper was very soon informed by a native interpreter who had been taught Dutch, and who could speak a few words of English, but who could talk still more intelligibly by signs, that neither he nor his crew would be 、、、. )「船長の来航の意図」は、皇帝(Emperor)とその国民に親愛の情からだとし、「漂流民は感謝の意を」表した。船を取り囲む「警備の厳しさ」、「本」、「知事とのやり取り」、「オランダ語の手紙(最近筆者が"Cooper Family Papers" の中から見つけた、森山が筆で書いたオランダ語の申渡書)」、「日本の風景・服装」、「日本地図」と続く。3泊4日の停泊のあと、船はカムチャツカ海域に向けて「浦賀を出港」した。
この記事は船員達の目に触れ、アメリカ本土にも伝えられ、ペリーの耳にも届き、のちの日本遠征へとつながる。この船の来航は日米友好の出発点となるとともに、蘭通辞森山栄之助を刺激し、彼の英語学習に大きな影響を及ぼすことになった。

  • 2004/1
  • 斎藤修一郎共訳『いろは文庫』に関する考察(2)
  • 塩崎 智

「日本歴史」(1972年12月)の『小村寿太郎とルーズベルト』(森克己)には、森氏が張作霖の最高顧問役だった町野武馬大佐から直接聞いた話が採られている。大佐は、明治38年に北京で小村寿太郎全権大使から聞いた話を概略次のように語ったという。
セオドア・ルーズベルトのハーバード大学在学中、級友に日本人留学生がいた。実家が破産したため、在米日本人の英語の勉強の参考書の作成を考え、彼の助けを借りて、日本の『義士銘名伝』という書物を英訳した。彼は親しい実業家らに売りさばいてやり、その金で留学生は勉強を続けることができたが、再版を出そうとしたところ、留学生は病死してしまったので、再版の売上金を実家にルーズベルトは送ってやった。
これが、ボストン大学ロースクール留学生斎藤修一郎共訳の忠臣蔵を指していることは容易に想像がつく。そこに斎藤と同じ福井藩留学生日下部太郎と、斎藤の級友で実家が破産した小村寿太郎をミックスしたような奇怪な逸話だ。ルーズベルトと斎藤は大学が異なり、斎藤が翻訳の助けを借りたのはエドワード・グリーという日本通だった。
「武生郷友会誌」47号、『斎藤修一郎先生を憶ふ』(蚤坊)にも、「米国ボストンの大学に故ルーズベルトやタフト等と席を列ねて学び…」とある。斎藤と大体同時期にカレッジで学んでいたが、ルーズベルトはハーバード、タフト大統領はイエールである。
これはほんの一例だが、「明治の偉人」の逸話がいつのまにか史料に「格上げ」されかねない。特に英学に関わる人物は海外渡航者が多く「顕彰」されやすい。我々が既に史実と信じていることが、実はaged episodeだったりする。しかし、幸いなことに海外の史料を突き合わせれば、史実に近づける可能性がある。日米を行き来する生活が可能な限り、「太平洋を挟んだ」史料アプローチを続ける所存である。

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