各支部の大会情報等を掲載しています。
日本の外来語研究は、二つの時期に分けることができ、第一の時期は大正時代から第二次世界大戦のころまでで、この時期のテーマは語源研究が主であった。第二次世界大戦のあと研究テーマとなったのは、外来語が現代日本語の中でどのように使われ機能し、どのような問題を持つかということである。
その第一の時期の1932年(昭和7)、市河三喜・岡倉由三郎・新村出の三顧問のもと、共同編集による季刊雑誌『外来語研究』が刊行され、中心的にその編集をしたのが、楳(うめ)垣(がき)実であった。
本発表の目的は、楳垣実の経歴と著書目録および、著書・論文の紹介である。 『外来語研究』創刊号の「72種の読み方(最終的には、165種になっている)を持つ漢字「生」」は、「外来字である漢字が我々の 子孫に対してどれ程の重荷であるか、これは、日本のみの持つ言語上の重荷ではないか。」との問題提起であった。昭和18年度の岡倉賞に輝いた『日本外来語の研究』には、「漢語が急速にふえたことも、外来文化の受け入れに主役を演じた知識階級が、ほとんど例外なく漢学的教養を身につけていたという事実とおおいに関係がある。」、また、「形式的借用」の項には、 「b 俚諺・名句・故事」として、「一石二鳥(To kill two birds with one stone.)その意味が徹底していない証拠には「一石(コク)二鳥」と発音する人がある。」など、興味深い話が載っている。『外来語』には、「セビロ」という語の諸説が網羅されている。
最後に、発表者が学生時代から私淑していた師楳垣実からの書簡披露があり、発表者は楳垣実から、研究調査においては、すぐ引き下がらず、自分の足を運ぶことを教わったことが披露された。
コメンテーターの大橋敦夫先生からは、楳垣実の真骨頂は語源研究で、冷静にことばを整理・記録していくことの重要性が指摘された。
ボストン地区で学んだ日本人学生が書き続けたノートがある。大学内の日本人会は知られているが、アメリカ人との交流を目指した大学間をまたがった学生の活動は珍しい。
最初の記事は1908学年度であり、最後は1953学年度までの半世紀近い期間に及ぶが太平洋戦争をはさんだ数年分などの記録は欠けている。終戦直後にノートは五冊あったが、四半世紀前に外務省の方が持ち帰ったのは四冊である。 記録集には学生ばかりでなく、学業を指導したアメリカ人とともに生活を支えた人々(アメリカ人と在留邦人)が出ている。山本五十六、姉崎正治、八木秀治、都留重人などの著名人が多数出てくるが歴史の流れを外観することに的を絞って発表した。 記事の大半は、日本人(日系人を含む)については会合に参加した人々が自ら書いた参加者名簿であり、アメリカ人は学生が主催する茶話会への招待者である。総計で日本人は約630人、アメリカ人は約190人である。
大学別に分けるとハーバード大学が過半数を超える、マサチューセッツ工科大学が約1/4であり、これにボストン大学(BU)を加えるとほぼ90%である。優秀な方々がボストン地区の著名校に留学したことが背景にある。
5年間毎に区切って日本人の人数の推移をみるとノートが1冊行方不明になっていることもあって太平洋戦争中の人数がゼロになっている。人数が一番多いのは1950年代前半であり、その大半はガリオア基金による留学生である。1910年代後半にピークがあるのは第一次世界大戦中のため戦時下のヨーロッパに留学を避けてアメリカへの留学に切り替えたためである。
アメリカ人の人数の推移を見ると1925年以降終戦までゼロの時代が続く。アメリカで排日移民法が1924年に成立したため、アメリカ人との交流が公式に出来なくなったためである。
これまでに英学史の視点からの明治維新直後の留学生の研究は数多くなされてきた、しかし明治後記以降は個人の記録を除いて纏った形の留学生の研究を知らない。またノートに出てくる方々で英学史研究の俎上に挙げるべき方が少なくない、関係者の研究の一助になれば幸いである。
序 2年半まえに約150年ぶりに発見された『英和対訳袖珍辞書』原稿の解読本(原稿9割完成)が未刊行なので概略説明する。通説は崩れ、単語レベルでの置換ではない。
1.本格的な国語辞典より30年も前に英和辞書が出たことほど日本の近代化を象徴するものはない。『言海』も英語辞書を翻訳して編纂開始され、大槻文彦の個人的出版だったのに、英和辞書の方は対外関係を最優先とした幕府の直接刊行。近代語辞書の見出しはカテゴリー別でなく50音順。読むから引く辞書へ、タテ秩序から水平的平等主義へ。
2.英語とは200年未満のつき合いだが1000年以上前からの漢語との交流・翻訳の蓄積の上に蘭語・英語など洋語翻訳可能となる。日本史は翻訳史である(三元三重の言語)。
異文化交流により自国の言語・文化を発展させたのは西洋も同じだが、上代には漢語を受容し訓をつけ(=翻訳)、仮名まで作りえたのと異なり、印欧語族の翻訳事情は全く別。その上で、蘭語から英語兼習への変化は鎖国から開国への転換を意味する。
西欧概念と出会い、そのままカタカナ語にせず、漢字組み合わせで必死に義訳する。
原意を離れて訳語としてのみ残る新語(=伝統文化の断絶)で近代化。意味をズラさせるものこそ独自文化Identityの証拠。訳語史は思想史(=概念の読み替え史)。
3.当時まだタテ社会のなかで、その概念を知らないヨコ社会の洋語を訳すという難問に直面。〔Ethicsや、civil engineeringの訳語「シヴィル器械」は時間なく省略。〕
4.Citizenを袖珍系統の辞書は安易な旧来の概念「町人」を意識的に避けて、近代語の始造に苦闘していた。(前期的商業資本と近代的産業資本とに対応するキイ概念)。
5.訳語が名詞として日常経験に先行して決まると、字として暗記する態度が充満し、考える過程が省略されてしまう。思想を経験からの抽象としては考えられず、動詞から名詞を作っていく日常生活過程がなく、したがって哲学(=根拠を問う精神)なき国民となりやすい。新しい訳語作成への参加は、幕末ではなく、現在に及ぶ課題。
発表者は、この15年間の『英和対訳袖珍辞書』調査研究の中の、訳語に関する考察の集大成として、関西大学に提出した学位論文の報告として、以下の発表を行った。
『英和対訳袖珍辞書』と幕末期に本邦に舶来していた代表的英華辞典3種に関して発表者の実施してきた抽象語1,217語の訳語調査において一致の見られた訳語のうち、先行の蘭和辞書等に見られる語を除いた57語の中で、現在まで生き残らなかった語(6語)、『日葡辞書』等に収録の語(9語)、『江戸大節用海内蔵』・『雅俗幼学新書』に見出される語(26語)、計41語を差し引き、以下の16語が特定された。
1意思・2解明・3起端・4謹慎・5極微・6事故・7事情・8主意・9信任・10崇拝・11性情・13創造・13比較・14必要・15比喩・16風琴
これらの訳語は、英華辞書等から『英和対訳袖珍辞書』が借用したことに端を発し、日本語に定着した近世中国製漢語である。また、文久年間刊行の官板翻訳書類4点、官板翻訳新聞4点は、ともに洋書調所教官の翻訳によるものであり、これら官板翻訳書類・新聞に、サンプルの訳語の半数近くが見出されたことから、『英和対訳袖珍辞書』と官板翻訳書類・新聞は相互に関連しつつ、中国製訳語の本邦への借用・伝播・定着に貢献した3要素であったとの見解が得られた。
幕末の『英和対訳袖珍辞書』の段階ですでに、Medhurst 「英漢字典」や官板翻訳書類・新聞を通じて、中国製訳語の借用が始まっていたこと、つまり、中日語彙交流は『英和対訳袖珍辞書』編集時にさかのぼることが、今回の辞書訳語比較により立証された。
『英和対訳袖珍辞書』の訳語は、洋書調所翻訳官たちの江戸時代知識人としての蘭学的素養を基礎に、儒学漢学的素養をも駆使して清代中国刊行文献・新聞を翻訳する作業体験の中から、生み出されたのであった。
K. T. Takahashi の名は、Lewis & Murakami: Ranald MacDonald, 1923 に、モントリオールに住む長老派教会の牧師で、非常に知的な日本人紳士、1888年にマクドナルドの原稿(実はマクラウドが書いた)を読み、批判的な報告という形式で英文の手紙を寄せたとして出てくる。Takahashi が読んだものは1887—8年頃に書かれた第2回目の原稿であった。Frederik L. Shodt: Native American in the land of the shogun, 2003には、Ranald MacDonald に記されなかったTakahashi の手厳しいコメントについても述べられている。マクラウドが1891年に纏めた第3回目の原稿は、そのコメントを無視した1000頁以上のものであった。しかし、すべての出版社から断られ、1892年末、彼はついにTakahashi のコメントに従った大規模な削減を行い、1893年、後にRanald MacDonald となる最終原稿を纏めた。「日本最初の英語教師」とは、Takahashiのコメントをヒントにマクラウドが第3回目の原稿に初めて導入したものと私は推察している。
富田虎男により、K. T. Takahashi はタカハシ・カズトモといい、牧師ではなく、1891—1892年にモントリオールのドライスデール社支店マネージャーをしていたことが明かにされた。今回、このタカハシが「高橋一知(1862—1930)」であると判明した。東京帝国大学法学部を中退、ミシガン大学法学部に留学し1885年6月に卒業。1897年秋に帰国、その年に創刊されたジャパンタイムズ社に入社、また、慶應義塾大学で英語を担当した。同大学では亡くなるまで34年間教えた他、東京商業高等学校、日本女子大学校、中央大学でも教えた。『英語青年』に誌友として数多く執筆している。その殆んどすべてが「英文を書くこと」に徹している。英米人でもかなわないほどの文章を書き、米国人宣教師と紙上でも討論会でも討論したというエピソードの持主であったが、控えめな性格のためかあまり知られていなかったようである。Current English (英文時例)、Unhuman Tour (漱石『草枕』の英訳)など、著書・英訳書 10冊。
戦後NHKラジオ英会話の講師として活躍する傍ら、数多の英語学習書を世に送り出した、松本亨(1913-1979)が、太平洋戦争期にアメリカで出版した自叙伝A Brother Is A Stranger(1946)と、1943年当時居住していた、ニューヨークのラーチモントで起きた、「ビクトリーガーデン」事件に焦点を当てた。前者は、太平洋戦争期に、日本人がアメリカで出版した、唯一の自叙伝のみならず、英語で書かれたという意味に於いて、英学史上も大きな意味を持つものと考えられる。この書物は、日本人を「人間以下」として捉える風潮のあった当時のアメリカ社会において、アメリカ人の日本人一般に対するイメージの転換を促す役割を果たすと同時に、戦後アメリカの対日占領政策にも繋がる内容を持つものである。後者の「ビクトリーガーデン事件」については、戦時食料供給対策としてアメリカで実施された、ビクトリーガーデンの思想的背景に触れつつ、松本一家が所有していたビクトリーガーデンが何者かによって破壊されるという事件を取り上げ、事件を報道したメディアの言説やコミュニティーの反応を分析することにより、「自由と正義の国」としての、アメリカ人の自意識が、それらの中にどのように反映されていたのかを考察した。
明治38(1905)年の渡米から大正2(1913)年の帰国までの8年間、本田増次郎が何処で何をし、またその身分関係はどうなっていたのか、従来、詳らかではなかった。
先ず、本田の身分関係について、高等師範学校の履歴簿、国立公文書館や外務省外交資料館の資料を用いて、当初は高等師範学校を休職して渡米し、2年間の休職期間が満了する数ヶ月前に留学の発令を受けたこと、さらに留学期間の2年が経過して後、外務省嘱託となったことを明らかにした。
次に、仕事の内容については、本田の自伝“The Story of a Japanese Cosmopolite”(「ある日本人コスモポリタンの物語」)等を用い、休職期間と留学期間の4年間は、英米に於ける英語による巡回公演と国際会議への出席であり、外務省と密接な連係のもとになされた活動であったことを、また外務省嘱託となってからの仕事は、外務省の広報機関である東洋通報社に属して、対米広報誌The Oriental Review(当初はThe Oriental Economic Review)の発刊に、編集長(当初は副編集長)として携わったことを示した。
本田渡米後8年間の仕事を要約すれば、外務省と緊密な関係を持っての、あるいは外務省嘱託としての「広報外交」と言える。明治44(1911)年、本田はハートフォード(Hartford)のトリニティ・カレッジ(Trinity College)から文学博士の名誉学位を授与されているが、それは休職・留学の4年間を巡回公演、すなわち「舌」によって、外務省嘱託の4年間を英字誌発行、すなわち「ペン」によって、日米の融和に尽くしたことが評価されたからであった。
本発表では、福井県華族松平康荘が1889年に英国農業留学に至った経緯ならびにサイレンセスター王立農学校(Royal Agricultural College, Cirencester RACと略す)での教育の実態を明らかにした。
康荘は幼い頃から松平家家督相続人としての教育を施された。教育方法は祖父慶永をはじめ、在京旧福井藩重臣合意の上で決定されている。下等小学→慶応義塾→学習院というルートが、康荘の欧州留学への布石となった。1884年、17歳の康荘は兵学修業のためドイツへ留学した。これは旧藩時代の士の職分の延長線上に存在するものであった。その後農学修業へと転じた理由を示す直接的な史料は見出せないが、「立国ノ大本ハ農業ノ隆昌ヲ促進スルハ農ヲ賤シムノ旧弊ヲ打破シ上流者自ラ躬行実践シテ以テ範ヲ当業者ニ示スノ捷径ナルコトヲ察シ、則チ愛孫康荘ヲ海外ニ派シ農学ヲ専修セシメントス」の一文から、慶永の助言が判明する。慶永の側用人中根雪江は「百姓は国の本」「宝」と説いた平田篤胤の生前門人であり、慶永も篤胤本を多数所蔵していることから、その影響も考えられる。
RACは1845年に王立の称号を付与された、化学分析による近代的農業経営及び農業教育を特色とした英語圏で最初の農学校である。康荘が帰国後創設した松平試農場は、農学研究と農業実践を併せ持った施設であった。RACにおける康荘は日常会話には不自由せず、農業実習や農業簿記では優秀な成績を収めたが、分析学や物理学の勉学には苦労している。これは、当時の日本と欧米の理化学系の学問の「差」を物語っている。
康荘は、旧士族がこぞって軍人を目指すなかで、サイエンスとしての農学と実際の農業を学び、故郷福井に帰ってその知識と技術を地域発展に生かした功績は大きい。康荘の教育は、新しい時代の華族の子弟教育の在り方を示したものとしても大変興味深い。
今回の発表の要点は次の4点である。(1)日本英学史における金子堅太郎研究の意義。 (2)ニューヨーク周辺主要図書館保存資料報告。(3)金子堅太郎書簡の概要。(4)英学史上の金子堅太郎関連資料。
このうち、まともに発表できた(1)についてまとめると次のようになる。①米国留学(1872年~1878年、ハーバード大学ロースクール卒)で修めた、英国、米国法の知識を基に、大日本帝国憲法草案起草に参加。②傑出した英語表現力、米国著名人との人脈を駆使し、日露戦争中、対米世論工作に従事(1904年3月~1905年10月の1年半、在ニューヨーク)。③米友協会(会長)、日米協会(会長)、日米同志会(会長)等の日米交流団体の長として活動。④ボストン留学以来、豊富な人脈を駆使して、公私にわたり、日本文化、日本人、日本社会の紹介に貢献。
(2)は割愛、(3)に関しては、金子発の英文書簡は計約170通発見されており、その内訳は、ボストン留学期の知人、米国マスコミ関係者、その他学者等となっている。(4)では、坪内逍遥が自作の英文小説を載せるべくAtlantic Monthly に紹介を金子に頼んだ書簡等を紹介した。
日米文化交流史を扱うにあたり、一次資料としての書簡の位置付けを今後、明確にしていきたい。