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イザベラ・バードの日本旅行記であるUnbeaten Tracks in Japan 『日本の未踏路』は1880年の初版以来何回かの改訂を重ねながら現在に至るまで100年以上の年月にわたり、さまざまな出版社により版を重ねられてきた。書名はいずれも同じこの表記であるが、副題は3種類ある。また、版によって削除の仕方、イラストの目録や地図、付録、索引の有無が異なる。ニューヨークのパトナムズサンズ版のように、手紙形式をとらなかった版もある。特にイザベラ・バード(ビショップ夫人)の存命中の改訂および再出版には本人の意思が働き、メッセージが付与されて、そこに著者の思考および行動の変化の表れが認められると思われる。
そこで、各版の副題、構成(地図、付録、索引等)を比較しそれぞれの特徴を検討した。副題の違いからアメリカでは騎馬旅行が強調されたこと、晩年の1900年の出版では、「談、記事」とあった出だしを「記録」と変えて、研究書としての自負を示したものと考えた。
また、初版と省略版の項目を比較して削除項目を検討したところ、内容的には、第1巻からは日本の民俗や俗信・迷信に関する項目、第2巻ではキリスト教とその伝道拠点や日本の宗教と教育に関するものが多かった。前者からは説明的要素を除いて、より軽快な旅の冒険に重点を置き、後者からは、日本の近代化を示すものを除いて、アイヌ人に話題を絞ったことが読み取れる。これにより、『』は面白い旅の本になり、表紙に記されたようにハワイ、ロッキー山脈から続く冒険と未知の地の旅行記として位置づけが明確になった。
彼女の生涯で最後の本となった1900年の新版の微妙な変更からは、女性としてはじめての王立地理学協会特別会員として、学術的場で認められた事実を示唆し、お話(紀行)から記録へ、手紙を元としたことの明示などの変更により、より学術的意味を持たせ、ペルシャ・クルディスタンから続く日本・朝鮮・中国のアジア研究の一貫として、著者自身の手により位置づけ直したと考えられる。
また本稿は彼女の読者が手にしたUnbeaten Tracks in Japan各版が、他の版とどう異なっているのか、あるいは同じなのかをできる限り明らかにしようと心がけた。
幕末から明治10年代における英学の導入において、蕃書調所およびその後身の果たした役割は重要である。また同調所およびその後身の変遷は近代的教育制度、とくに中高等教育制度の変遷と一体である。したがって当時英学の受容がどのようになされたか、また教育制度や内容の近代化、西洋化がどのように行われたかを検討しようとすれば、調所とその後身の調査は避けて通ることはできない。ところがそれを取り上げようとするとき、次のような制度の変遷が、もとよりそれはわが国近代教育の発展の過程であるが、立ちはだかる。第一高等中学校の明治以降分だけを示せば、「開成所」―「大学南校」―「南校」―「第一大学区第一番中学」―「第一大学区開成学校」―「東京外国語学校」―「東京英語学校」―「東京大学予備門」―「第一高等中学校」となる。これは一つの学校の変遷であり、他に帝国大学と東京商業学校の二つがあり、その3校が絡み合い、途中で改廃あり離合集散ありで、入り組んだ制度となっている。
今回は(以前まとめた資料を増補する形で)3校の変遷途中での改廃や離合集散を整理して、その入り組んだ制度を整理してみた。
これまで中国における草創期の英語教育の一部、即ち教会学校の英語教育活動を紹介してきたが、今回は京師同文館における英語教育を中心に検討した。
1858年に中国とイギリスとの間に「天津条約」が締結され、条約の第50条は英文テキストを以って条約解釈の基準とすることを規定したのである。こうして中国は外交上英語人材の養成を求められ、これが当面の急務となった。1862年恭親王奕訢らの一部の有識者からの上奏で外交事務にあたって外国語ができる人材の育成を目的とする外国語学校京師同文館が設けられた。
京師同文館は英文館(英語館)をもって発足し、その後仏文館(フランス語館)、俄文館(ロシア語館)、天文館など次々と追加した。英文館を設立した際に「同文館章程」を頒布し、学生の年齢、応募資格、学習内容、試験制度、学生規則などを定めた。1870年代に入ると英語学習とともに万国公法、西洋歴史、地理、更に西洋科学技術の学習も導入された。
英語教育においては英語の文字・語彙や文法などの授業内容のみならず電報・外交公文書の翻訳、西洋書漢訳の授業も行われた。教師は専ら英米人に頼ることとなり授業中に文法、翻訳を重視した上で通訳にも力をいれた。こうして京師同文館は多くの英語人材を養成し中国における草創期の英語教育に貢献した。
発表者は今から5年前に表記の著書を上梓した。今年はフェートン号事件から正真正銘の200年目に当たるので、奇しくも事件当日(西暦)に当たる19月4日の例会で、この5年間に著者が新たに気付いて事柄を補遺として述べて見ることにした。
拙著のような通史を書く場合、そこに出てくる人物や事項のすべてに通じていることは期待されないし、また期待されても不可能に近い。英語教育史と関連する側面だけが分かっていればよいとされるのが普通である。しかし、それらの全体像を容易に知る事が出来るような研究書などが新たに出ると、改めて著者の理解が十分でなかった事に気がつくことも少なくない。
一次史料とまではいかなくても、全体像を知るのに役立ちそうな研究書は「参考文献」にも5ページにわたってすでに上げておいたが、当日配布した資料はそれへの補遺ともいうべきものである。
1、2例を挙げれば、真壁仁氏の大著『徳川後期の学問と政治』は、蕃書調所の初代頭取古賀謹一郎の背景を知るのに大いに役立った。またミネルヴァ書房から近年次々に出る「日本評伝選」の諸書(古賀謹一郎、澤柳政太郎など)も人物像を知る上で大いに参考になった。
今回の発表では、1.楚人冠は晩年どのようにハーン作品を読んだか、2.楚人冠はどのように八雲顕彰活動に関わったか、を「日記」や蔵書や関連資料を基に検討した。
1.楚人冠は母とみ死去の翌昭和16年、「なゝそじがたり」を『アサヒグラフ』に連載し、半生を振り返り、迫り来る「死」への態勢を整え、明鏡止水の域に達した。その後、持病の入院治療中に読む本を模索中に、ハーン作品集Stories and Sketches[田部隆次編英文注釈本]を早世した長男と二男の本棚に偶然発見する。この本との出会いが契機となり、入院及び退院後の約一年間、楚人冠はハーン作品集7篇を読み耽り、心の安らぎを得る。入院中に読んだ2編(上掲書およびGleanings in Buddha-Fields)の読後感 は『アサヒグラフ』に「ハーンの文」、「ハーンの人」、「稲むらの火」)として結実する。
2.楚人冠は、明治45年5月、朝日新聞紙上にミッチェル・マクドナルドとのインタービュー記事「ハーンを葬るなかれ」を発表した。紙上、マクドナルドの八雲観を紹介し、自らも「八雲の」会のごときものの設立を訴え、啓蒙的な役割を演じた。しかし、大正14年に設立された第一次「八雲会」や、昭和8年発足した小泉八雲記念会が行った、小泉記念館建設の募金活動などには加わらなかった。ジャーナリストとして直接の関与を避けたのか、あるいは、自身が八雲の教え子ではないために遠慮が働いたのか、定かではない。
楚人冠は八雲顕彰活動に直接関わらなかったが、大谷繞石や石原喜久太郎らの八雲の教え子をはじめ、夏目漱石や市河三喜らの英語英文学者、徳富蘇峰・頭本元貞らのジャーナリスト、喜安璡太郎・福原麟太郎らの出版関係者など広範囲に及ぶ八雲に縁の人物との温かい交流を通して、楚人冠にとって八雲は常に身近な存在であり続けた。そして、数こそは少ないが八雲作品を読み通し、八雲の描いた文学世界を堪能し、八雲を敬愛し続けたと言える。
The Elementary Catechisms, English Grammar(London, 1850)は、The British Libraryに続き、University of OxfordのBodleian Libraryにも所蔵されていることがわかった。しかし、この書についてはまだ実地調査をしていない。
『英吉利文典』のわが国における英学史上および国語学史上の重要性についてはよく言われることであるが、本書はイギリスではどのような評価があるのであろうか。Manfred Görlach: Annotated Bibliography of 19th-Century Grammars of English, Amsterdam, John Benjamins, 1998では、”somewhat too abstract for the purpose, even discussing the Latin model falsely prevailing in other grammars (p.39) although the editors purpose that “the information conveyed will be suited to the capacity of children, and the subjects treated in an inviting and familiar style”.”と評されている。高評ではないが、2300点以上もの文法書が記載されているなかで、この言及は貴重である。Lynda Mugglestone: ”Talking Proper”, New York, Oxford University Press, 1997には、津田仙が理解に苦しんだと後年回想した ”The dialect differs from the standard”(正確ではない)を含むQ.と A.が取上げられている。その独自性が考えられる。The Dublin Review, September 1851, Londonでは、このシリーズは、わかりやすく、簡潔に非常に多くの情報を記載していると述べる一方、各巻の出来は様々であるともある。English Grammarの記載はない。Joseph Shaylor: The Fascination of Books, London, Simpkin Marshall Hamilton Kent & Co., 1912は、その40年以前ほとんどすべての教科が問答形式で教えられていた時代に良く売れた教科書の一つとしてGroombridge’s “Elementary Catechisms”を挙げている。
Unbeaten Tracks in Japan(2巻本)は1878(明治11)年に来日した英国の女性旅行家イザベラ・バードの日本旅行記として、1880年にロンドンのジョン・マレー社から出版されて当時のベストセラーとなった*1。ついで1885年に同社から初版の半分以上を削除した省略新版(1巻本、邦訳:『日本奥地紀行』)が出た。この省略版を巡って、日本では、削除版はホーレス・ケプロン(開拓使教師頭取兼顧問、Journal of Horace Capron Expedition to Japan 1871—1875)と特にトーマス・ライト・ブラキストンの批難(Japan in Yezo、1883年2~10月JAPAN GAZETTE)に対応したものであると言われてきた(長谷川誠一[1984]、金坂清則[1999]、楠家重敏[2002])。
しかし、Unbeaten Tracks in Japanの普及版の話は初版以前からあり、彼女の他の旅行記でも削除がなされていることが分かっている。
そこで、彼らの批難箇所と彼女の記述を比較検討してみた。気候、植物、動物、産業に関する部分は、当初から削除予定にあった「覚書」にあり、機械的に削除された。また函館、新潟の外国人社会に関しての削除が見られた。
逆に信書中の植物や冒険については批難箇所の削除および訂正がなく、彼らの言及に対応した様子が見られない。「統計」を削除して冒険と旅行の本を作るという目的に従って、日本の近代化の進捗状況と開港場、地域の解説を除き、東北・北海道の古い日本の記述を残した。よって省略版がブラキストンらの批難に配慮したとはいえないとの結論に至った。
この削除により日本における彼女の人物交流やキリスト教的思想が消えるという問題が生じたが、省略版はテンポがよくなり、1世紀以上に亘り人々を惹きつけて読み継がれることとなった。
*1 邦訳:『日本奥地紀行』、『バード 日本紀行』、『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』この3冊に重複部分はなく3冊で完訳となる。
この出版社はJ.(John)Groombridgeと称した1700年代後半から1891年頃まで存在した。Groombridge and Sonsの“Groombridge”については、“GROOMBRIDGE, Richard Coleman Henry, 1806—1865. Publisher at 6 Panyer Alley before he moved to5Paternoster Row in 1842.”(The Osborne Collection of Early Children’s Books 1566—1910, Toronto Public Library, 1966) が最も詳しい情報である。1830年頃から“R. Groombridge”となった社名に、1845年に“Sons”が加わる。
児童図書、教科書、辞書、辞(事)典、宗教、自然科学(動植物、天文他)、教育、文学、経済、地理などに関する様々な書籍を刊行した。ロビンソン・クルーソーも8版出ている。雑誌も1836年から1891年までに9種発行している。その中には、The Family Economist(Jan. 1848—Dec.1860)やThe Train(Jan. 1856—June 1858)がある。前者の編集者たちによってThe Elementary Catechisms は計画、編纂された。また、後者の1856年3月号にルイス・キャロルは初めてそのペンネームで詩“Solitude”を発表した。その他、The Scottish Christian Herald (共)(Mar. 1836—Dec. 1841) とThe Present Testimony (1849—1870)などのキリスト教の雑誌もあった。それらの刊行物から、Richardはクリスチャンであり、幸せの源である家庭の安定と向上に貢献することを目指していたように思われる。
その所在地 Paternoster Row には、16世紀にすでに本を書いたり売ったりする人々が住んでいた(John Stow:Survey of London, 1598)。1666年のロンドン大火の後も書店、出版者、印刷所でますます繁栄したこの通りは、第二次世界大戦の1940年12月29日夜から30日朝にかけての一夜の爆撃によって壊滅した。六百万冊の本が灰になったという。
この出版社によって刊行されたかなりの数の書籍が現在でも翻刻され続けている。
James A.B.Scherer教授は米国切っての親日家であるが、ドイツ系の移民として活躍し戦前の米国では広く知られた国際問題の研究者であった。
その彼が著書“The Three Meiji Leaders in Japan”において、明治時代にわが国が危機を脱することに貢献した3人の指導者を挙げて、彼らの功績をたたえている。その洞察の深さに感服する。
3人とは伊藤博文、東郷平八郎、そして乃木希典である。
伊藤は明治天皇の絶大な信頼をうけて、対露外交交渉に当たり、日露戦争勃発の時期を遅らせて、日本に勝利をもたらせ、早期和平の筋道をつくった。また戦後朝鮮王朝の再興に身を挺して奔走したが、不幸にもハルピンの駅頭で凶弾に撃たれて急死し、日本の対アジア和平交渉はこのために頓挫、朝鮮併合は直後に実施された。
日本海海戦において日本海軍はバルチック艦隊を全滅させ、又旅順要塞を陥落させて、陸軍に大勝利をもたらした。続いて奉天会戦でも乃木将軍の第三軍が左側面から迂回攻撃を加えて、ロシア軍を敗走させた。この陸軍の野戦の勝利はドイツ陸軍参謀本部の得意の包囲作戦を見習ったものである。
日清戦争の後「三国干渉」によって、外国から手厳しい介入を受けたわが国は、ロシアを倒して危機を脱したが、勝因は伊藤博文という優れたリーダー達と東郷、乃木という軍部の指揮官たちが、荷車の両輪の役割を果たして絶妙のコンビネーションで早期に戦いを勝利に導いて、和平交渉を締結して諸外国からの介入のスキを与えなかったことにあると、著者は指摘している。
残念ながらわが国は昭和に入って、2・26事件などのテロや軍のクーデターの失敗によって、有能な指導者を失って仕舞った為無条件降伏を食う破目になったと結論づけている。
我国で初めて市販された英和辞書である『英和対訳袖珍辞書』(初版の刊行は文久2年、西暦1862年)の見出し語はオランダで編まれたH. Picardの英蘭辞書に拠っていることが従来の研究で知られていた。しかしこれまでH. Picardの人物像は語られてこなかったし、Picard辞書の史的な位置付けも明確になっていなかった。
Picard辞書の初版の序文が書かれたオランダのGorinchemの公文書局に記録が残っており、姓名はHendricus Picardであり1810年に生まれて、この町で初等中等教育を行っていたことが判明した、また没年は1858年と推定できる。
そしてアメリカに移民した人々に英語を教えており、移民者と縁者との書簡集を編んでいることから英語教師だけの役目ではなかったかもしれない。今後の研究に待ちたい。
さてPicard辞書は先行する辞書を参考にしたと明記しているが、オランダの英学関係者と連絡が取れたことでそれらの辞書がほぼ判明した。そしてPicard辞書はポケット型の英蘭辞書として19世紀の半ばから半世紀にわたり広く使われたことが明らかになった。
しかし同国でもPicard辞書は今や忘れられており、ましてや日本の辞書史を飾る存在だとは思われておらず、語彙などの研究はなされていない。日本からの働きかけでインターネット上で意見交換をする場ができた。今後協力して19世紀のオランダにおける英語像を作り上げたいものである。
ところでPicardの読み方だが、英語流の読み方ではピカードであるが、フランス語流だとピカールとなる。オランダ語では語尾のdはtの音になるのでピカールと書いている書物があるが、語中のrは日本人には難物でありオランダ語流ならピカルトが正しいという。そしてオランダではPicardという苗字は珍しいのでフランス語流でピカールと読むのが無難なようである。
今年はフェートン(Phaeton)号事件200周年にあたるが、堀達之助編『英和対訳袖珍辞書』成立の時代背景を知るために、達之助関連英学史年表を作成提示した。
発表者が、『英和対訳袖珍辞書』に関する発表を始めてから15年になるが、本辞書の訳語のうち、『和蘭字彙』訳を踏襲していない訳語のルーツとして、W.H.Medhurst『英漢字典』の訳語を“借用した”とのこれまでの主張を、“参照し借用した可能性がある”という表現にトーン・ダウンした。発表者は、これまでの調査の、『和蘭字彙』訳以外の訳語でかつMedhurst『英漢字典』に見出されるものとして、その数を異なり語数119語に限定して、調査・考察を継続してきた。
発表者の最近の調査では、W.H.Medhurstが上海に創設した墨海書館刊『六合叢談』を蕃所調所で翻刻した『官板六合叢談』ほか官板翻訳書類にも、119訳語中、32.8%の訳語の用例が見つかっている。 今回の発表では、『官板バタヒヤ新聞』・『官板海外新聞』等の訳語の調査を報告した。 対象の訳語中56.3%の語が文久年間刊行の官板翻訳新聞に見出された。
発表者は、中日語彙交流に関し、以下の流れを図示した。
[Medhurst『英漢字典』→『六合叢談』等] ⇒ [①官板翻訳新聞 ⇔ ②官板翻訳書類 ⇔ ③官板英和辞書=『英和対訳袖珍辞書』] ⇒ 近代語 ⇒ 現代日本語
『英和対訳袖珍辞書』の編者は、『和蘭字彙』の訳語を優先的に利用しつつも、Medhurst『英漢字典』を参照し、その中で、すでに本邦に舶来していた中国初期・後期洋学書に用例の見られる語を借用し、官板翻訳新聞や官板翻訳書類に使用するとともに、『英和対訳袖珍辞書』の訳語として採用したと言えよう。
英文学者本田増次郎は1925年暮れに亡くなったが、年明け早々、『英語青年』は2号に亘って本田の追悼号を発行した。同誌の創刊から戦前に限って、追悼号の出た英文学者の総勢は16名、そのうち複数号が宛てられたのは10名、その中に本田も含まれている。本田は当時一流の英文学者と見られていたのである。しかし、本田の後半生を調べて見ると、彼が英文学者以外に、別の側面も持っていたことが判る。
外務省外交資料館所蔵「宣伝関係雑件 嘱託及補助金支給宣伝者其他宣伝費支出関係 邦人ノ部 二」にあるマル秘の稟議書によれば、1920年に本田の外務省嘱託の身分が更新されており、その仕事は「内外の新聞雑誌への寄稿」と「日本に在住し又は来日する外国人に対する啓発業務」であった。
そこで、諸資料を用いて、先ず1920年以降の仕事が如何なるものであったかを明らかにし、続いて、当該稟議以前の本田の仕事が、当時の英国大使グリーン卿との接触であり、外務省と英国大使館との間に立って外交問題に携わったであろうことを、本田がHerald of Asiaへ寄稿した記事‘Sir Conyngham Greene and Japan’の内容を分析することによって論証を試みた。その結果、勝浦吉雄氏が以前、本田の一人娘山本華子(作家山本有三夫人)から聴取した「僕は正式の外交官ではなく、いわば陰の外交官だ。だから、側面から日本の外交を推進するのだ」という、本田の漏らした言葉の意味が明らかになった。
1905年の渡米後本田が従事した英米での講演活動や、ニューヨークを拠点とした対米宣伝活動、そして帰国後の外務省嘱託としての仕事は、いわゆる「広報外交」に当たる。本田の後半生を捉えようとするなら、かかる視座を持つことが必要である。
前回までの発表で杉本鉞子が長岡藩、元家老の稲垣平助の六女として生まれ、戊辰戦争とその後の父の借金により一家離散となっていた新潟での生活(一期)を確認することが出来た。今回は英語を習得した海岸女学校、東京英和女学校、浅草新谷町の美以美小学校で1898年に宗教学研究の旅券で渡米するまでの東京の学校の記録(二期)を中心に検証した。
鉞子が初めて英語を学んだ当時の日本は明治政府による教育制度が整いつつある過程であった。独身アメリカ人女性の活躍の場としてアジア諸国に伝道を目的とする教師が派遣されてきた背景と鉞子のような地方出身で没落した家庭の女子でも学び生活出来る施設の設立が平行して進んだ時期であった。ミッション・スクールの教育内容や方針からわかったことは、鉞子の在学時代は英語による聖書教育、そして日本語と英語の通訳や翻訳など宣教に必要な実務者が必要とされた。従って学生は給費(校費)制度と奉仕の仕事を前提とし、『ウィルソン読本』や『メソジスト教会問答』聖書を英語で学び、宿舎でアメリカ人女性教師と寝起きを共にする生活で、その後も仕事を続けながら生きた実践的な英語を学び、「キリスト教働き人」として、アメリカへ渡る機会を得たと思われる。
その後、明治政府による教師の育成も進み各諸学校に日本人の教師を配属することが可能になり、ミッション・スクールは英語教育ばかりで日本語の読み書きが出来なくなるなどの弊害が叫ばれ改革を迫られることになる。
従って、作品のあらすじによる鉞子の家族が決めた婚約者のため花嫁修業として英語を学び渡米するという経緯とは別に、ミッション・スクールを要としてアメリカから日本に流れてくる婦人外国伝道会社という女性の社会活動と人的交流のつながり、アメリカ人による篤志家からの寄付と学校や学生への支援といった金銭的流れからも当時の鉞子をめぐる日米間移動やその他の交流の可能性があると推測される。
維新初頭、ニューヨーク州ブルックリンのBrooklyn Polytechnic Instituteでは延べ約30人の日本人が学んでいた。その中で、同校のCollegiate 部門(全8年中後半4年間)に進んだ学生は、3、4人しかいない。江木はその1人であり、一時帰国をはさみコロンビア大学ロースクールに進学し2年間で課程を修了した。帰国後は、最終的に外務官僚となり、米国公使館に派遣される。このブルックリン留学生を代表する俊英江木高遠の生涯、特に留学中の様子を日米の資料を使って紹介した。
今回の発表で特に留意したのが、江木周辺、つまりブルックリンやニュー・ブランズウイックにおける日本人留学生の健康状態と病死である。長谷川雉郎、三井高悠、小幡甚三郎、入江音次郎、広沢健三らの留学生仲間が次々と現地で病死し、井上清夫、五十川基、華頂宮らが志半ばで帰国し、江木留学中に、五十川と華頂宮は日本で亡くなる。病は主に結核だった。当時のブルックリンの死因のトップである。
このような状況を考えると、江木の留学は我々を次のような結論に導く。幕末維新の留学生は、一種「特攻隊」的存在(山下英一先生の御指摘)であった。健康診断も無く病歴も御構いなしで、留学生に選ばれた「名誉」を返上するなど言語道断。ブルックリン留学生は、華頂宮を筆頭に皇族留学生のプライドもあり、切磋琢磨で猛烈に勉強した。留学先での暗唱中心の勉強は、睡眠時間を削る。士族には運動の習慣もない。
ついには、校長や公使森有礼から「ドクター・ストップ」が発されるが、その甲斐もなく、多くの俊英が無念の思いで、アメリカを、そしてこの世を去らざるを得なかった。江木が留学生としての業績を全うできたのは、一つには彼等同胞の期待を一身に背負っていたからではなかったか。