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英和対訳袖珍辞書の初版(文久2年版)はPicard辞書(1857年改訂版)に拠っていることが従来から知られていた。全ての見出し語を調べたところPicard辞書(1857年版)から47語を削除し、Picard辞書(1843年初版)と他の英蘭辞書から73語を追加して構成していることが分かった。また文久2年版の見出し語の99.8%がPicard辞書(1857年版)に拠っており従来の定説が数値で確認できた。
Picard辞書には英語の誤植が1000語に8語程度あるが、その一部を文久2年版は蘭英辞書をもとに改訂している。しかし植字工が英語に不慣れだったせいであろうが文久2年版では誤植が倍増している。
異なる見出し語に同じ例文や熟語が出てくるケースがあるが、対応するPicard辞書のオランダ語表現が異なる場合や、オランダ語表現が同じでも邦訳が異なる場合がある。翻訳編集の作業を分担したために重複を認識できなかったと考えられる。
英和対訳袖珍辞書の慶応2年改正増補版では初版のページ構成をそのままに留めて2百弱の新語を追加しており、さらに文久版にあった誤植の過半数を修正している。慶応3年の改正増補版には新語の追加はないが、さらに誤植の訂正を行っている。
Picard辞書が与えている野鳥に関するオランダ語で幕末期の著名な蘭和辞典に出ていないが対応する古いオランダ語でなら出てくることを見出した。当時の蘭和辞典が18世紀初頭に刊行されたハルマの蘭仏辞典に拠っていることが背景にあるが、明治維新前後に来日した欧米人が日本人の使うオランダ語が旧式だと指摘していることの具体例になると考える。
Picard辞書は英蘭辞書と蘭英辞書の2部構成になっているが、鳥の訳語から英和対訳袖珍辞書は蘭英辞書を利用しなかったことが分かった。利用していれば翻訳作業が軽減でき、翻訳の精度が上がったことであろう。
最初の来中英国船はウェデル(John Weddell)船長の率いた4隻の艦隊であった。1637年6月ウェデル船長らは広東にやってきた。中国と開港条約を締結しようとしたが中国側に拒絶された。それ以降英国はもっぱらインド貿易に力を注いだ。1685年中国は国を開き、朝貢貿易以外の国にも貿易を許すこととしたので、かつて中国に朝貢したことのないイギリスも、中国と貿易ができるようになった。18世紀の中ごろから英国はポルトガル、スペインなどを圧して、ほとんど中国貿易を独占するまでになった。
1736年雍正帝が没し乾隆帝が継承した。乾隆帝は康煕帝、雍正帝と同様にカトリック教の宣教活動に対する取締りを益々強化した。そして1757年に清朝政府は禁教命令を発布すると共に外国貿易を広東一港に限ると公布した。またあわせて中国人と外国人との交流を極度に制限し、その具体例としては外国人が中国語を学ぶことを禁止した。意志疎通はこれまですべて訛ったポルトガル語、英語と広東語の混合したもので行われていた。
英国の対中貿易が益々増加したことも手伝って19世紀に入ると広東の中国人が使用する訛語はほとんど英語のみとなった。そのイディオムも発音も純粋の英語より著しく転訛しており、新たに英国より来た者にはほとんど理解できない言葉であった。
西洋近代科学技術を学び取るために清朝政府により1862年中国で最初の外国語学校である京師同文館が設立され、正式に英語が学ばれるようになった。しかし京師同文館の設立される数十年前に広州、上海などの限られた沿岸都市で英語教育はすでに始まっていた。それらの英語教育は英米両国のキリスト教宣教師などによって行われていた。その来中キリスト教宣教師の第一人は英国人ロバート・モリソン(Robert Morrison, 1782~1834,漢名 馬礼遜)である。
J. C. ヘボン編纂『和英語林集成』初版(1867)のPREFACEには,参看した書物として,W. H. メドハーストによる『英和・和英語彙』(1830)と,イエズス会の宣教師による『日葡辞書』(1603)が挙げられている。メドハーストについては,ヘボンのサインと鉛筆での書き込みがあるものが明治学院大学図書館に所蔵されている。そこで,稀覯本である『日葡』をヘボンが二百年以上の時を隔てて参看した可能性について,先行研究を整理・確認しながら,大きく次の点から報告した(その他の西洋人による書物などとのかかわりにも留意した)。
1. 明治学院大学図書館蔵『日仏辞書』について
2. 『日葡』と『日仏』の参看の可能性
1. については,異同状況をはじめ確認したところ,1868年に刊行された合冊訂正本ではなく,1862年から1868年にかけて刊行された初版本を合綴したものである。
2. については,見出し語や用例・語義をもとにして,『日葡』と『日仏』の参看の可能性について検証を行った。具体的には,「原稿」において多くの用例を持ち,前項要素とする見出し語も多く,基本的なことばである「足」・「茶」・「鼻・花」を対象とし,「原稿」・初版・『日葡』・『日仏』の該当箇所を中心に確認した。
しかし,『日葡』ないし『日仏』からの明確な影響関係は見出しがたく,判別は容易につかなかった(双方の異同も問題である)。そこで,「原稿」の時点では,参看不可能な1868年に刊行された『日仏』第四分冊と類似性を呈するのならば,「原稿」段階で『日葡』を用いたということが立証できるため,「力」と,「力」を前項とする見出し語(第四分冊に収録)について,語義・用例も踏まえ調査を行った。
現段階では,「原稿」で『日葡』を参看し,判読のしやすい『日仏』を「原稿」作成以降に用いたのではないかと考える(換言すれば初版は『日仏』色が強められる)が,『日西辞書』(1630)という視点も加味した上で,今後も調査を継続していきたい。
今回の発表は昨年9月に発表したあとで出てきた新資料を基に、前回の発表で十分触れられなかったことを中心に行った。発表者(水野)はまず、杉村広太郎(1872~1945、楚人冠と号したのは明治34年以降と思われる)の明治16年(11歳)の自修学校から明治36年の朝日新聞社に勤務するまでの約20年間は、楚人冠の英学面での優れた素養の形成期であり、かつ彼が英語教師として活躍し、また、英学面での種々の業績(翻訳・英学関係の雑誌の執筆など)を残した時期であるので、それに焦点を当てて、彼の事跡・業績ついて配布資料に基づいて説明した。その中で、特に重要な点として彼の国民英学会、サンマ―学校と自由神学校(後の先進学院)で学んだこと、英語教師として、東京学院英語部(雑誌『英学』を主筆)、京都西本願寺文学寮、正則学校などでの活躍などについて触れた。次に、楚人冠と交流のあった主な人々として、英学者23名、文学者、ジャーナリスト、仏教関係者、歌人・俳人、社会主義者、政治家等の各分野の多彩な人々48名の名を挙げ、特に、英学関係では、南方熊楠、夏目漱石、徳富蘇峰、頭本元貞、イーストレーキ、増田藤之助、福原燐太郎などとの交流が深かったことを述べた。次に楚人冠へ宛てた英学者たちの貴重な手紙(夏目、増田、市河三喜、芥川龍之介等)のコピーを紹介した。
続いて、発表者(丹沢)は「杉村楚人冠と小泉八雲」と題し、楚人冠が八雲から受けた影響に焦点を当てて報告した。楚人冠は八雲と直接の交流は無かったし、国民英学会等で八雲作品を学ぶことも無かったが、大谷正信らの八雲の教え子を介し八雲を知り、市河三喜らの英語・英学者との交流を通じて、八雲への尊敬の念を深めた。楚人冠は晩年入院中に記した「市に隠るヽ記」の中で、ハーンから印象派的文体と温情に満ちた眼差しを体得した、と述懐している。和洋漢に精通したジャーナリス・文筆家杉村楚人冠が残した輝かしい業績の根底に、「心眼」を以って日本および日本人の美を描写した小泉八雲の存在があったと思われる。杉村楚人冠もまた、弱者のことを思う「温情に富んだ人」であったといえよう。それはまた、都会の喧騒から逃れて枯淡の境地を切り開いた楚人冠と千葉県我孫子の人々との心温まる交流の中に、遺憾なく反映されている。
現在、ニューヨーク市の一区として存在するブルックリン地区に、明治初頭、日本人留学生たちが学んでいたことは知られていたが、いつ、誰が、どの学校で学んでいたかに関しては、不明な点が多かった。これまでの現地調査により、現在のPolytechnic Universityの前身である、The Brooklyn Collegiate and Polytechnic Instituteで、合計29人の日本人が1870年9月から1875年6月まで在学していたことが、同校のアーカイブズに保存されていたAnnual Catalogue of the Officers and Students of the Brooklyn Collegiate and Polytechnic Institute から判明した。留学生の個人名は次の通りである。
東隆彦=華頂宮博経、藤森圭一郎、 五十川基、馬込為助、高戸賞士=江木高遠、柳本直太郎、林糾四郎、広沢健三、松田晋斎、河野亮蔵、小幡甚三郎、奥平昌邁、酒井忠邦、佐藤百太郎、高須慄、竹村謹吾、山田鉄次、井伊直憲、井伊直安、Kawakami, Fusanobu、.Kazue, Tadakuni、国友瀧之助、松田正、Murase, Tamekichi、西村捨三、西郷唯一、白峯春馬、曽根直之進、津村福広。
同校は、大学進学準備のセカンダリー・スクールであり、日本人留学生のうち20人はSpecial Students として、クラス、学年の制約無しに比較的自由に学んでいたようだ。詳細は、この夏の現地リサーチ後の発表に譲るが、維新初頭の海外留学のクライマックスとも言える時期に、ブルックリンは、さほど遠からぬニュー・ブランズウイックに劣らない日本人留学生のメッカであったことが分かる。
通詞堀達之助編纂の本邦初の活字本英和辞典『英和対訳辞書』に関し、発表者は、当時、本邦に舶載していたモリソン、ウィリアムズ、メドハースト編集の3英華字典との訳語比較調査の結果から、『英和対訳袖珍辞書』は、W. H. Medhurst, English and Chinese Dictionary から相当数の訳語を借用していることを立証してきた。(『英学史研究』第29号(1996年)・第32号(1999年)参照)しかも、それらの訳語の多くは、現代日本語の基本語彙となって、現代人の言語活動を豊かにしているのであるから、『英和対訳袖珍辞書』の訳語の系譜解明は、国語史的にも、日中言語語彙交流史的にも、肝要な課題と言えよう。 発表者は、先の本学会1月の本部例会で、堀孝彦会員との共著『《英和対訳袖珍辞書》の遍歴-目で見る現存初版15本-』刊行以後6年間の本辞書の‘書誌的研究’の補足および、研究史年表を発表したのに続き、今回は、『英和対訳袖珍辞書』刊行以来の本辞書の全研究史を以下の4つの時代区分に分ける試論を展開した。
『英和対訳袖珍辞書』研究史時代区分 | ||
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第1期 | 紹介期 | ――明治・大正期 |
第2期 | 書誌的研究期 | ――昭和初期・戦前 |
第3期 | 蘭和辞書調査期 | ――戦後~昭和63年 |
第4期 | 日中語彙調査期 | ――昭和63年以降平成 |
なお、発表者は、呉美慧「『英和対訳袖珍辞書』の訳語に関する一考察―メドハーストの『華英字典』との関係―」『国語学 研究と資料』第十二号、1988年(昭和63)をもって、第4期の開始と考える。 本論文以後、中国語学を含めた日中語彙研究が盛んになっている。
マテオ・リッチを創始者とするイエズス会の宣教師は16世紀に中国に渡り、中国知識層の中華意識に気づいて妥協政策をとり、支配階級に信者を獲得して権力の中枢にまでくいこんだが、19世紀初頭に中国に派遣されたプロテスタント宣教師は、相次ぐ禁教政策に阻まれた。初期のプロテスタント宣教師に知識階級の出身者は少ない。英華辞典編集の主な目的はこうした来華宣教師に中国語を習得させることにあった。しかし当初現地語による布教は、中央志向の中国知識人の蔑視と反発を招くだけの結果に終わった。1842年8月南京条約が締結されて、アヘン戦争は終わりを告げ、広州、福州、アモイ、寧波、上海の5港が開かれると、英人の居住と交易が認められ、領事館員、税関関係者といった人々も辞典編纂の列に加わる。宣教師の辞典はその意味で先駆的役割を果たしたことになる。
まず、モリソンの『中国語字典』(1815~1823)を皮切りに、メドハースト、ウィリアムズ、ロプシャイト、ドーリトルといったプロテスタント宣教師の手になる辞典が、つぎつぎに現れた。なかでもロプシャイトの『英華字典』(1866~1869)は、明治政府が大量に購入し、これを底本とする中村正直校正『英華和訳字典』、井上哲次郎『訂増英華字典』が出版された。また鄺其照『字典集成』(1868)は中国人の手になる初の英華辞典であり、1875年に再版がでたのをはじめ、1880年以降にも着実に版を重ねて、中国における英漢辞典への橋頭堡となった。1880年代末には商務印書館が参入する。また英華辞典におけるウェブスター辞書の役割も無視できない。上述の中村、井上の和刻本にもウェブスター辞書が使われている。英華・華英辞典のほとんどは中国で印刷、出版されたものなのだが、当の中国では相次ぐ戦乱で散逸してしまったものが多い。
我々が言うところの「文検」とは「文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験」という長い名称の略称である。この試験が制度として創設された背景には、明治の中頃の中等教員の需要増大に対応する、ということがあった。明治18年(1885年)に第1回の「文検」試験が行われ、以後明治・大正・昭和と継続的に行われ、第二次世界大戦を挟んで、昭和24年(1949年)の第81回まで回を重ねた。英語の試験は第46回(昭和2年、1927年)以降は一回置きに実施されたので(しかし、試験は年2回実施されていたのでほぼ毎年実施)、合計では64回の実施回数を数えた。英語教員になるためのバイパス試験として非常に重要な位置を占めていた。
試験のスタイルも一様ではなかったが、紙面の関係でここでは省略する。この「文検」試験にどのような形で、西洋(英国)風物(Realien)知識が問われていたか、を調べてみたのが、今回の研究報告である。
基本的には、本試験(予備試験というものがあった)の二日目の口頭試問的な英会話のなかで、風物知識が問われることが多かった。この口頭試問では、英語教授法のこと、文法知識(誤文訂正を指摘して、それをどのように教えるか)、教員になったときの実物教授の実例提示、教員としての心構えなども問われた。そして、英語文化のバックグラウンドとしての風物知識を問う方法として採用されたのが、絵葉書やイラスト、雑誌からの切り抜き(ポンチ絵)などである。
そもそも、この絵葉書利用(明治42年の第22回「文検」が最初)のアイディアは神田乃武男爵によるものだった。神田は「今年は教授法で何か珍しい試験をしやうと思つて居る所へ外國旅行中の友人からPortuguese peasant woman を描いた絵端書を送つて来たから之を材料に試験した。之れは外國の風俗や単語を如何程知つて居るかを試みるのによい材料であつた。」と『英語青年』(第20巻第12号、明治42年3月)に書き残している。発表では、これ以降、実際にどのような絵葉書、ポンチ絵、イラストが使われ、試験委員はどのような考えを抱いていたか、受験者たちはどのような反応を示していたかなどを、文献や記録などをもとに説明した。また、何ゆえにこのような風物(Realien)研究が日本で導入されていったのかの歴史的経緯、さらに「文検」受験参考書などにはどのような対策が記述され、どのようなRealien研究参考書が推薦されていたのか、などについても報告した。
ペリー艦隊が日米和親条約を締結して下田を引き上げてから2週間後、早米国商船が下田に入港してきた。Silas E.Burrowsの持ち船Lady Pierce号である。この船には一人の日本人漂流民が乗っていた。名を勇之助といい、越後国岩船郡板貝村出身で廻船「八幡丸」の水夫であった。八幡丸は蝦夷地からの帰路、松前沖で遭難、太平洋を9ヶ月漂流する。13人乗り組みのうち、12人が飢えと病気で死亡、勇之助ただ一人が米国商船Emma Packer号に救助され、サンフランシスコへと運ばれる。サンフランシスコにはJoseph Hecoとその仲間がおり、ヒコの通訳で八幡丸遭難のことが明らかになる。下田奉行所の支配組頭伊佐新次郎は勇之助の英語力に目をつけ、通詞とすることを幕府に進言するが、勇之助の強い願望で彼を国許へ帰す。本発表では勇之助の英語力がどの程度のものであったか、当時の米国内のメデイアに現れた日本情報について述べてみたい。
21世紀突入直後の平成14年(2002)1月に、財団法人・野球体育博物館は、明治10年代の半ば過ぎからベースボールと関わって非凡な活躍をした俳人の正岡子規(1867~1902)の野球殿堂入りを報じた。遅きに失した感は否めないが、先ずはめでたしであった。
本発表では、幼名「升(のぼる)」をもじって雅号「野球(のボール)」などを名乗った子規のベースボールへのひたむきな取り組みの姿勢を「新潮日本文学アルバム21」の『正岡子規』(1986年1月)に収録された「略年表」などの記載に注目し、ベースボールから見た『正岡子規年表』作成を目指すことにした。次に子規の明治16年(1883)に郷里松山からの上京以降、晩年に至る足跡を告げる主な修正・補足事項を列挙しておきたい。
以上、野球(ベースボール)の立場から「子規年表」を見てきた。今後更にその完成を目指したい。
すぐれた英学史研究者大村喜吉は、名著『斎藤秀三郎伝』とその補遺の2回にわたって、「斎藤秀三郎の生母は不詳」との報告をされている。
筆者は長男である秀三郎が「秀一郎」でも「秀太郎」でもなく、なぜ秀三郎なのかを不審に思っていた。また、斎藤家の菩提寺の墓地と過去帳の調査だけで結論を出されたのは「やや急ぎすぎ」の感があるとも考えていた。
墓地に墓がなく過去帳にも記録がない場合、秀三郎の生母は死去のとき斎藤家の人ではなかったと考えるのが自然であろう。名前も実家も不明では調査方法がないとも思えるが、秀三郎の父・斎藤永頼は仙臺藩伊達家に仕えた人であるから、主君に対して「結婚届」は提出の筈である。この方面からの調査で本人の名前はわかると考えていた。
筆者の努力は実際には不要で、ごく短期間に解明できたのは、宮城県図書館資料奉仕部長早坂信子氏の御教示によるものである。記して深謝の意を表す次第である。
早坂氏は私信で「本館のある資料によれば秀三郎の父斎藤友三郎(永瀬)は「安政三年十月十五日士族中川徳治藤原好之三女ヲ娶」とあって、1856年永瀬23歳の時に18歳の中川とみと結婚したことが記されている」と知らせてくださった。図書館利用者の依頼により調査し、メモを作ったが、『士族明細簿』『貫属禄高』『家中人数調』『仙臺藩士族籍』『仙臺縣士族戸籍』(の写し)などを参考にされたという。
永瀬は北條流兵学の皆伝、中西流算法の伝授であったことも確認できたとのことであり、「中川徳治藤原好之」は当時の士族が先祖名を名乗る習慣によるもので、同一人であるとのことであった。
筆者の注文に応じて送られてきた資料のコピーにも「友三郎こと斎藤永瀬」とあって秀三郎の名の由来もはっきりした。結婚を伝える資料のコピーはなかったが、出所は『仙臺縣士族戸籍』と思われるが、これは「壬申戸籍」と呼ばれるもので、学術調査であっても利用は不可能である。早坂氏の作られたメモが残っていたのは真に幸運であったと言う外はない。
嘉永6年、突如、浦賀に来航したペリー黒船艦隊の応接をした通詞堀達之助は、“I can speak Dutch.”と叫び、交渉はオランダ語を介して行われた。英語学習の必要性を痛感した幕府より、英和辞書編纂の幕命が下るや、堀達之助を編集主幹に、H. Picard 編 A New Pocket Dictionary of the English and Dutch Languages を底本に、『和蘭字彙』ほかの先行蘭和辞書の訳語を重訳して、本邦初の活字本英和辞典『英和対訳袖珍(しゅうちん)辞書』が完成したのであった。本辞書こそ英和辞典の親であり、「英和辞典」という名のルーツでもある。
達之助がその辞書の「編纂の際に、英華字典を座右に置いて参照した」という堀家伝説の‘幻の英華字典’は何だったのか。当時、舶載していたR. Morrison の『字典』、S. W. Williamsの『英華韻府 歴階』、そして、W. H. Medhurst のEnglish and Chinese Dictionary の3英華字典との訳語比較調査の結果から、 発表者は、『英和対訳袖珍辞書』は、W. H. Medhurst, English and Chinese Dictionary から相当数の訳語を借用していることを立証することができた。(『英学史研究』第32号、1999年参照)
しかも、それらの訳語の多くは、現代日本語の基本語彙となって、現代人の言語活動を豊かにしているのである。開国に際し少なからぬ役割を果たした通詞堀達之助が編纂した英和辞典はオランダ人の表わした蘭英辞書を底本とし、お隣の中国で伝道活動中のイギリス人が編んだ『英漢字典』中の漢語を借用したのであるから、『英和対訳袖珍辞書』の訳語の系譜解明は、国語史的にも、日中及び国際言語交流史的にも、肝要な課題と言えよう。
発表者は、堀孝彦会員との共著『《英和対訳袖珍辞書》の遍歴-目で見る現存初版15本-』刊行以後6年間の本辞書の‘書誌的研究’を整理し、以後、永年の研究テーマ「『英和対訳袖珍辞書』と近代語の成立」に立ち返るべく、今回の発表を行った。(資料残部あり)