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明治中期から末期にかけて我国の英語教育で重用された英文法書に、英国人ジョン・コリンソン・ネスフィールド(John Collinson Nesfield、以下ではJCNと略す)の一連の著作があるが、これまでJCNの没年は不明であった。ニュージーランド在の曾孫と連絡が取れてJCNは1919年に鬼籍に入っていたのが分かった、またJCNの多くの著作を手がけた英国のマクミラン出版社からも同じ見解を得た。
JCNのミドルネームであるCollinsonは母親の旧姓(family name)であること、母が逝去した年にJCNがインドでの仕事を切り上げたこと、JCNは英国に帰国後四半世紀にわたり著作活動を続けたこと、そして7人の子供たちが活躍の場を世界各地に求めたことなどが分かり、一家の人間像が浮かび上がってきた。
JCNはインドの民話を英語の読本シリーズに仕上げているが、固有名詞の現地語の音に英語と同じ音があるのを利用して英語の発音を学ばせる工夫がしている。英語と現地語がインド・ヨーロッパ語族同士なのできることだが興味深い。
このようにJCNが自ら英語以外の多くの言語を学生時代から学び続ける中で培った創意が、英語を母国語としない人のために書かれた英文典や読本に活かされている。それゆえにJCNの著作はインドを中心とした多くの国で戦後も利用された。我国では類書に埋没してしまった感がぬぐい得ないが、他国の状況を踏まえてもう一度洗い直してみると、我国の英語教育上の新たな課題が見えてくるかもしれない。
これまで、中国における草創期の英語教育を紹介してきたが、今回は中国におけるS. R. Brownの英語教育を中心に取り上げた。
S. R. Brownは8年間中国で伝道する同時に中国の英語教育に多大な功績を果たした。
Ⅰ澳門時代のS. R. Brown
1839年11月モリソン教育協会学校が開校し、ブラウンは正式に校長となった。協会に対するブラウンの最初の報告は午前中に自分の中国語研究に午後と夕方は英語教授に専念したことを伝えていた。
Ⅱ香港時代のS. R. Brown
1842年アヘン戦争が終結し、学校は澳門から香港に移動した。香港ではブラウンが英語教師として中国人生徒の聞く、話す能力を訓練するために口頭練習を中心とする方法を提唱し、中国人生徒の発音を厳格に指導し日常語習得を中心とする英語教授を実践した。
今後中国、日本におけるブラウンの英語教育の比較についてもっと研究したいと思う。
「木の葉文典」の愛称で親しまれ、広く学ばれたいわゆる開成所版『英吉利文典』各版をその原本であるThe Elementary Catechisms, English Grammar, 1850と比較検討した。
その結果、本書の翻刻に携わった人々は、すでにかなりの英語力と文法の知識を持っていたことが見えてきた。蕃書調所で英語が教えられるようになった翌年のことである。
『英吉利文典』は頁付けまで原本そっくりに翻刻しているが、そこには主体的な努力がなされている。その初版は、早稲田大学蔵の勝俣銓吉郎旧蔵書と『マイクロフィルム版 初期日本英学資料集成』の底本・若林正治氏旧蔵書(現在は神田外語大学蔵)の2冊しか現存は確認されていない。早稲田大蔵本には、多くの乱丁や白紙の頁、斜めになった表などがあるが、神田外語大蔵本では、これらの乱れは正され、前者の誤植の訂正がなされているところもあるなど、それが後の刷であることは明らかである。両者それぞれに校正がなされており、原本で“Dice”とあるのを“Die”に、また、“ADVERBS”とあるのを“ADJECTIVES”とするなど、両者とも原本の文法的誤りまで訂正している。その訂正の仕方はそれぞれ異なる。特に、前者は、印をつけて「大字ニスベシ」、「体替リ」、「体替リニ非ズ」などの言葉を添えていることが多い。この早稲田大蔵初版による校正が『英吉利文典』第4版~第6版に反映されている。それは、第3版でも同様であることが櫻井豪人氏のご教示により判明した。恐らく第2版でもすでにそのように訂正されていると考えられる。
『日本英語学書誌』では、初版を文久2年(1862)の刊行と推定し、第2版を1864年の刊行としているが、第2版の刊行は1862年(松村幹男『明治期英語教育研究』)であり、初版は、異なる刷の存在からも、その前年である1861年の刊行と推定される。
F.V.ディキンズはイギリス海軍の軍医として幕末に初来日し、いったん帰国するが、弁護士として再来日しマリア・ルース号事件などで辣腕をふるった人物だが、その一方で、日本の文化や文学に興味をもち『百人一首』『忠臣蔵』などをいち早く翻訳紹介したジャパノロジストでもある。10年あまりの滞在の後、帰国してロンドン大学に勤務し、やがて事務総長となった頃、大英博物館を舞台に研究をくり広げていた熊楠と出会う。1896年3月のことである。
ふたりの交流は熊楠の帰国後も続き、20年にわたる交際のなかで夥しい数の手紙のやりとりがあったと思われる。現在、ディキンズが熊楠にあてた50通が残存しており、発表者はそれらの翻刻と注釈の作業を進めている。本発表では、これらの手紙を主な資料として、幕末から明治初期の日本を知るジャパノロジストと、19世紀末のイギリスにあって日本人であることを意識し続けたナショナリストの出会いを、時代の文脈の中で捕らえ直すことを試みた。
ディキンズの「竹取物語」訳をめぐる熊楠との激しい議論は、骨太の男たちを強く結びつけたエピソードとして紹介されることが多い。それは熊楠の日記や「履歴書」における記述に基づいているためである。だがディキンズによる手紙を読むと、ふたりの関係はそれほど単純なものではなかったことが感じられる。自分の息子ほどの年齢の傍若無人な熊楠の博識を高く評価し、大英博物館で暴行事件を起こした彼をかばい、経済的な援助も惜しまなかったディキンズだが、そこには友情といったものだけでなく、自身の日本研究にとって熊楠が欠くことのできないインフォーマントであるとの認識があったと思われるのである。ディキンズは次第に西洋化され変容していく日本に幻滅を感じながらも、生涯、日本研究に関わり続け、とくに熊楠を知ってからの研究が彼の代表的な仕事になったことは忘れてはならない点である。
1891年(明治24年)米国南部バージニア州のルーテル福音教会synod(宗務所)が日本の布教の強化を決議して、一番目の宣教師として任命されたのが、シエ―ラー師であった.当時23歳独身、まだ正式な神学校卒業生ではなかったが、ローノーク大学を卒業して、教会の仕事を手伝っていた。それから3ヶ月即席に牧師の資格をとると、サンフランシスコから出発した。1892年2月25日に横浜に着き,寄留地で日本語の学習に入った。ルーテル教会からは年俸として750ドルを支給されたが.宣教師としては低い。思わぬ幸運を掴んだ。先輩の米人宣教師 Dr.Bradbury が帰国するので,彼の後任として佐賀県立中学校の英語教師に承認され、月給80円を支給された。父親のサイモン・シェーラー師はルーテル派牧師の有力者で、米国南部統一宗務所総会の議長であったから幸運だ。
親の七光で恵まれたシェーラー師は今度は結婚を望んだ。そこで八方手を尽くして,1894年(明治27年)七月五日に神戸で、日本布教のためにオハイオ州長老会の派遣するベッシイー・ブラウンさん(Bessie Brown)と結婚した。翌年には女子が生まれた。二人の子供に恵まれたが,同志社問題で失敗して、壮途半ばで帰国したシェーラー夫妻は離婚した。
シェーラー師は本国のルーテル教会本部に対して至急処置をとるよう要求。本国から1895年に調査団が来日して同志社側と対決した。然し合意には達せず1900年代に持ち越されたこの最中,シェーラー師は突然ノイローゼになって帰国を決意して,一家3人は1897年10月に横浜を出航、夫人の実家のあるオハイヲ州のニューコンコードに落ち着いた。
同年3月宣教師辞任して南部の統一神学校で教鞭をとっていたが離婚して、単身カリフォルニア州にわたり,パサデナのカリフォルニア工科大学に教鞭をとるようになった。
この間に日本が日露戦争に大勝、近代工業国に発展していく有様を目撃”Japan’s Advance”などの名著多数を現し、米国内で注目を引いた。
今春に行った米国Pennsylvania 州Lehigh大学図書館とドイツMainz市Gutenberg博物館所蔵の『英和対訳袖珍辞書』初版現地調査の報告をする。まず、Lehigh 大学蔵本については、ドイツ人W. Lobscheid の旧蔵本とされている。一方、現存するW. H. Medhurst:『漢英字典』静岡県立中央図書館蔵葵文庫本、同『英漢字典』 函館市中央図書館蔵はいずれもLobscheidから堀達之助に贈られたもので、日米和親条約批准の際に、それぞれ通詞を務めた二人の交流を示すものと考えられている。今回のLehigh 大学蔵本調査から、本書に、英語・崩し字などの書込みが少々見られることが判明した。
次いで、Gutenberg 博物館蔵本であるが、 これは三好彰会員のインターネット検索により発見されたもので、『東京朝日新聞』1939年(昭和十四年)に、「盟邦の『記念博』に海を渡る古文書 グーテンの発明五百年記念博覧会に、日本独特の印刷術を世界に紹介するため欣然参加。外務省文化事業部、国際文化振興会が委員会を組織し、『英和対訳袖珍』の初版本など出陳」と出ていた。現地調査で確認された扉の蔵書印「若樹文庫」は、蔵書家林若樹の蔵書印である。荒木伊兵衛『日本英語学書志』にこの「若樹文庫」本の扉が掲載されたが、氏の没後本書は行方不明となっていた。調査から、同書は氏の没年の1年後、日独伊防共協定下のGutenberg五百年祭に出品されたことが判明した。扉のもう一つの蔵書印「森村蔵書」は、対米貿易の祖森村市左衛門の養子森村義行の蔵書印ではなかろうか。本書は、林若樹が手放したあと、森村銀行頭取森村義行の蔵書を経て、ドイツに渡ったと推定される。(発表後の見解)「国際文化振興会」については、柴崎厚士『近代日本と国際文化交流―国際文化振興会の創設と展開』1999年(平成11)に詳しい。なお、Gutenberg博物館に於ける本書常設展示の現代的意義は何か、博物館に回答を求める予定である。
印刷された日本初の英和辞書である『英和対訳袖珍辞書』初版(文久2年刊)の草稿と、改正増補版(慶応2年刊)の校正原稿とが、群馬県高崎市の古書店主・名雲純一氏により発見された。同氏からの知らせで実見できた我々二人が、早速本部例会で報告した。
まず堀が「開国の息吹――『英和対訳袖珍辞書』の草稿・校正原稿発見をめぐって」と題し、幕末・明初の(英和)辞書の役割と、今回の新発見資料の歴史的な意義を解説した。邦訳語を確定する過程が草稿の出現で具体的に見え、近代化過程における近代的語彙成立をその作成過程で示す貴重な一級資料である(Cassock:僧の上着+ノ名→袈裟)。
ついで三好が草稿・校正原稿の分析結果を速報した。新発見の資料は手書きの文久版の草稿二一枚(全体の三%強)と、印刷された文久版を10枚程度ずつコヨリで綴じた改正増補版(慶応二年刊)のための校正原稿とみなせる六一枚(全体の八分の一相当)とである。
報告は新発見資料のうち名雲書店カタログに公表された部分からだけの解析であるが、文久版の草稿は、その構成や訳語などから判断して本物だと判断される。興味深いのは辞書編纂の底本を、Picardの英蘭辞書初版(1843年刊)として開始したが、途中で同辞書再版(1857年刊)に切り替えたこと(編纂方針の変更)が分かったことである。
慶応2年刊のための校正原稿は、朱書き訂正箇所が、一点を除き、すべて完成稿に反映されており、最終段階の校正稿に間違いない。
また校正原稿に書き込まれた署名から、新たな編纂者の名も分かってきた。その中の「堀」が達之助であれば、彼は箱館転勤の直前まで、定説に反し改正増補にも関わっていたことになる。
今回の新発見は新たな研究テーマをいくつも生み出し、今後、関係する諸学会とも連携して一層の解明につとめたい。
ブラウネルの2作目の著作『日本の心』第27章「宣教師たち」(‘Missionaries and Missionaries’)は、1902年4月ロンドン日本協会第58回例会席上でブラウネルが発表した「本願寺と日本の仏教プロテスタンティズム」(’HONGWANJI AND BUDDHIST PROTESTANTISM IN JAPAN’)と深い関係があることが分かってきた。さらにその4ヵ月後、『日英新報』(”ANGLO=JAPANESE GAZETTE”)1902年9月号掲載の’The Japanese Archaeological Expedition’と比較検討することによって日本時代のブラウネルと本願寺関係の人々とのかかわり、ロンドンにおけるブラウネルと本願寺関係の人々のつながり、さらにキリスト教徒ブラウネルが見た日本の本願寺派の仏教はどのようなものだったのか、が次第に明らかになってきた。とはいえ、ブラウネルの足跡をたどることは、特にアメリカ時代に関しては、あいも変わらず暗中模索である。今回の発表では、先ずブラウネルの訃報記事からブラウネルにとって日本時代の経験がどれほど重いものであったかを確認し、次に『日本の心』第27章「宣教師たち」(‘Missionaries and Missionaries’)と「本願寺と日本の仏教プロテスタンティズム」(’HONGWANJI AND BUDDHIST PROTESTANTISM IN JAPAN’)を比較検討することによって、キリスト教徒ブラウネルが見た日本の本願寺派の仏教はどのようなものだったのかを明らかにした。
『伊吉利文典』は、現存するものはわが国でも数少ない。最近、この書がシカゴの The Newberry Library に原本の書名(The Elementary Catechisms, English Grammar, 1850)で所蔵されていることがわかった。
1989年第26回全国大会で「万次郎の持ち帰った文法書とその翻刻」と題し9種の翻刻本についてスライドを用いて報告したが、そのときの『伊吉利文典』は、早稲田大学蔵本。大きさは26cmx18cm、地模様のある黄土色の表紙に「伊吉利文典 全」と書かれた白い題簽が右上に貼られている。そのイメージを私は四半世紀も持ち続けていた。ところが、The Newberry Library蔵の『伊吉利文典』の表紙はこげ茶色で、題簽は同じであるが中央に貼られている。この書は、1895年12月、General George W. Bailey(1841—1905)から入手したBailey’s Collection of Books on China 約1,200冊中の1冊であったとのことである。1896年1月12日付Chicago Daily Tribuneは、この貴重なコレクションはBaileyが中国に住んだからこそ成しえたもので、30年に及ぶ収集努力の賜物であると報じている。
本書と同じ装丁のものを京都外国語大学が所蔵している。また、早稲田大学蔵本と同じ装丁のものが東京外国語大学と神田外国語大学に所蔵されている。それぞれ、京都外大と早稲田大の図書館のHPで見ることができ、読むこともできる。内容は同一である。
やがて英学が開けるだろうと、手塚律蔵が彼の蘭学塾から筆記体の木版刷りで出版した本書は、わが国初の英文から直接翻刻された英文法書である。この翻刻本の1冊が日本から中国を経てアメリカに渡った。幕末から明治初期に英語を学んだ人々の必須の教科書となった『伊吉利文典』および『英吉利文典』の原本は、ロンドンからホノルルを経て日本にやって来た。両書のお陰で、昨年、私は生まれて初めてシカゴとロンドンの地を踏んだ。
これまで、アメリカ側のブルックリン留学生関連資料を紹介、説明してきたが、今回は、日本側の資料を中心に扱った。
まず、華頂宮一行の五十川基(福山藩)が手紙の形で藩関係者に郵送したと思われる、『東洋紀行』がある。陽暦1870年9月22日に横浜をグレート・リパブリック号で出航し、ブルックリンに着いてしばらく経った陽暦11月14日までの、日記形式の文章である。原資料の一部虫食いにより判読できない部分がある。現地の新聞に取り上げられた日本人関連の記事を読んで自らの襟を正す様子など、当時の留学生の心境をリアル・タイムに綴った貴重な資料である。(『広島県史 近世資料編 VI』所収)
次に、やはり華頂宮一行の五十川と江木高遠(高戸賞士)が江木の父鰐水に書き送った手紙の内容を、鰐水が日記に書きつけている部分が数箇所ある。分量的には決して多くはないし、手紙そのものではないが(引用のみ)、学校での月間成績や2人の気概などを伝えている。これも貴重な資料である。(「江木鰐水日記」『大日本古記録』6下所収)
広沢真臣の息子健三もBPI(ブルックリン・ポリテクニーク・インスティチュート)で学んでいたが、病名不明の病気で急逝した。広沢の死を扱った新聞記事も紹介したが、より詳細な説明は次回、さらに今後の発表を待たれたい。
2006年12月の例会で発表した「英和対訳袖珍辞書の見出し語の総ざらい」の続編として、薩摩辞書(明治2年版、4年版)と開拓使辞書(明治5年版)を取り上げた。
薩摩辞書の明治2年版と明治4年版はフルベッキの指導の下に改訂作業が行われた。慶応版の改訂が初版(文久2年版)のページ構成を崩さないという制約の下に行われたが、薩摩辞書ではそのような制約を設けずに必要な語を追加し、不必要な語を削除する方針を貫いていた。そして明治4年版の見出し語は文久2年版より約4千5百語増えていた。
文久2年版と明治4年版の見出し語の第一文字毎のページ数の比率を現代の英和辞典(手許にあった研究社の新英和辞典)と比較した。文久2年版ではUが2.5倍でIが1.5倍と多く、K,X,Y,Zは半分程度の少なさだった。明治4年版ではIとQが1.5倍以上も多く、G,K,X,Y,Zが半分程度だった。先の発表で文久2年版はPicard辞書(改訂2版)に99.8%依存していることを明らかにしたが、大胆な改訂を加えた明治4年版でもPicard辞書の特異性から抜け出すことが出来なかったとみなせる。
明治4年版の改訂はWebster’s Complete Dictionary(1864年刊)に大きく依存しており、主として次のような特徴がある:
-icと-icalの併記(例 Platonic, Platonical)
-ceと-cyの併記(例 Antecedence, Antecedency)
-reと-erの併記(例 Centre, Center)
動名詞と過去分詞の形容詞用法の削除
全面的な米国英語綴りの採用
この中には、このWebster辞書の問題点を引き継いでいるのもある。
開拓使辞書は明治4年版の薩摩辞書をほぼ踏襲しているが、2語については誤植を訂正しているのを見出した。それなりの評価の見直しが必要であろう。
アメリカで出版された『武士の娘』の作者杉本鉞子の人生と自伝として出版されている作品との関連を考察した。
アメリカのコロンビア大学において日本語と歴史の講師をしていた時、杉本鉞子は自分や娘達の子ども時代の写真の掲載を伴い、みずからの生い立ちを約一年間に及ぶ連載記事としてアメリカで発表した。その一年後に本として出版したものが『武士の娘』である。また、杉本鉞子は日本に帰国後、アメリカの体験を3回に渡り同じく写真の掲載を使った形で発表している。これら二つの「自伝」的要素のある雑誌記事の内容はアメリカで発表された『武士の娘』の内容と比較すると時間の流れと本人の思い違いとは異なるさまざまな相違が見られる。この相違点を手がかりに作者とその思想を検証してみた。
「自伝として」それぞれの国で発表された『武士の娘』だが、杉本鉞子の家族にまつわる検証により、アメリカで先に発表された『武士の娘』は杉本鉞子だけでなく、家族として日本とアメリカで共に過ごしたアメリカ人女性フローレンス・ミルズ・ウイルソンの多大なる影響があったと結論できた。日本で日本人家族と生活することにより、当時のアメリカ人女性の教育と啓蒙的思想でアメリカ市民を育て、ひいては「世界市民」という思想を持ったアメリカ人女性が、日本人の女性の言葉を借りて人生を振り返り、また、アメリカ社会で生きるアメリカ生まれの日系人への擁護の姿勢が加えられたのではないかと考えた。つまりアメリカ人に読まれるための日本人女性の体験として、興味をもたれた連載記事が、『武士の娘』という本になり、ひいてはアメリカに渡った移民の一人として成功した日本人女性伝として伝えられることになったということであり、『武士の娘』は杉本鉞子の自伝とは呼べない内容であるという結論に達した。
今回はその検証のうち『武士の娘』の内容から導入として『武士の娘』の先行研究や杉本鉞子の経歴および当時の江戸時代の両親から受けていたであろう両親の結婚や家族に対する当時の思想の部分を紹介した。
W.ロプシャイトWilhelm Lobscheidの『英華字典』(1866~1869 LOBと略称)は英華辞典の集大成であるとはよくきくことばだが、では何の集大成かということになると、明確なこたえはまだでていない。LOBには使用頻度順やジャンル別の配列にも、ことばの定義にも、さほど意を用いた形跡はない。中国側との売買交渉を効果的に進めるにはこの辞書ほど役に立つものはないと積極的に実用性を売りこもうとする姿勢からも、LOBの漢字語には現地調達のもの、いいかえれば記録に残っていないものもかなりあるとみてよいと思われる。
LOBを原著とする日本版のひとつが、中村敬宇『英華和訳字典』(初版:1879~81「中村」と略称)であり、いまひとつは井上哲次郎『訂増英華字典』(初版:1883~85「井上」と略称)である。廉価で入手できる和刻本は、日本の近代語の形成に大きな影響をおよぼした。なお「中村」、「井上」ともまったく触れていないが、実は両書ともウェブスター辞書に負うところが大きい。「中村」の増補英語には明示されているものと、いないものがある。
「井上」の初版7分冊本を、本文の訳語(漢字語)に限定して調査した結果、専門用語(主として科学用語)は、S.W.Williams『英華韻府歴階』(1844)とJ.Doolittle『英華萃林韻府』第3部(1872)から、その他は主として先行英華辞典から採られていることがわかった。また昨夏オーストリア国立図書館で幻のLOB皇帝献呈本が発見された。
さらにF.キングセル(馮鏡如)によるLOBの改訂版(1897,1899)がある。キングセルは広東語表現を排除したために、漢字語には「井上」から削除あるいは変更したものが多い。
1897年版と1899年版の内容は、本文も巻末に添えた書式もまったく同じもので、見出し語と品詞略語はほぼ完全に「井上」からの転写であった。