学会本部による定期研究発表会と発表内容要旨

2012

  • 2012/11
  • 『いろは文庫』の英訳①-翻訳の実際から見た英訳の意図
  • 川瀬健一

留学生齋藤修一郎(1855-1910)とイギリス人の作家エドワード・グリーEdward Greey(1836-1888)とが、為永春水(1790-1843)の『正史実伝 いろは文庫』を英訳したThe Loyal Ronins:An Historical Romance(1880・明治13年ニューヨークのG. P. Putnam’s Sons社)がある。この英訳版『いろは文庫』について最初に詳しく研究し紹介したのは、評論家で作家の木村毅(『日米文学交流史の研究』1960年、講談社)だが、木村は、齋藤が『いろは文庫』を英訳して欧米人に「忠臣蔵」の話を示した意図については何も論じていない。ここを論じたのが歴史家の宮澤誠一で(『近代日本と「忠臣蔵」幻想』2001年、青木書店)、「赤穂浪人の討ち入りに『賛嘆の念』を禁じえない齋藤は、たんに『忠臣蔵』の物語を紹介するにとどまらず、赤穂事件に『愛国心の芽生え』を認め、『武士道』を強調してナショナリズムの発揚につながるように、『いろは文庫』を改変して英訳しているのである」と結論した。しかし、この宮澤の結論は誤りである。英訳者は、『いろは文庫』の中から武士とその家族の哀感が漂う話を主に収録し、最終章「第40章 国外追放者の帰還」だけが忠義の行動を称賛する性格を持っているにも関らず、英訳版『いろは文庫』は、忠義に生きた武士とその家族の哀感を描いたことで、浪人の行動をより人間的に現実的なものとして浮かび上がらせた近代的な小説になっている。  齋藤は東京で英学を勉強している間には、日本の国民統合には天皇を中心とした忠義の観念が必要だと考えていた。しかしボストンで5年間学んだあとでは、国民統合には主権者としての国民の意識の形成が必要で、それには新聞や雑誌による世論形成が極めて重要だと理解するようになっていた。忠君愛国では近代国家はできないという考えだ。にもかかわらず留学を終える齋藤が欧米人に「忠臣蔵」の話を英訳して示したのはなぜであったか。これは齋藤が『いろは文庫』を英訳しようと決心した1879年という年に注目してみる必要がある。彼の個人史を検討しないとわからない。

  • 2012/7
  • 齋藤修一郎の比較文明論―歴史叙述方法から見た日・中・欧
  • 川瀬健一

齋藤修一郎(1885-1910)が、1873(明治6)年12月頃、開成学校法科予科3年在学時17歳のときに書いた英作文の一つを紹介する。 これは、ラトガース大学のアレキサンダー図書館が所蔵するグリフィス・コレクション中の生徒作文319編の中の一つで、 「HISTORICAL STYLES」という分野に分類された9編の作文の最後のもの。9編の作文を書いた生徒は齋藤も含めて 全員法科予科3年の生徒で、おそらく直前に「開化史」の講義を修了した法科生に対してグリフィスが、日・中・欧の歴史書の 比較を英作文の課題に出したことへの回答か。この作文の中で齋藤は、日本や中国の歴史書のように事実を大事にせずに王侯の 事跡だけを注目する歴史書よりも、国や国民の習慣をより高い文明の段階に引き上げる出来事に注目して事実に即して記述する 西洋の歴史書の方が優れているとし、この違いの裏にはアジアと西洋の文明・政治制度の差、すなわち帝王による専制政治と 国民主権の議会制政治の差があると断定している。この点は昨年紹介した自伝で齋藤が、西洋文明を目指し議会制の国民国家を 建設すべきとしていることにつながる。齋藤が比較に使用した歴史書は、『十八史略』『元明史略』『皇朝史略』『日本外史』 とギゾーの『ヨーロッパ文明史』か。注目すべきは齋藤がこの作文で「日本は中国とは異なり忠義の国である」と断じている個所で、 『文明論之概略』の著者福澤諭吉とは異なり、齋藤がこの時点で忠君愛国を国民統合の理念と考えていたことを示しており、 後に彼が米国で『いろは文庫』を英訳し、日本を忠義の国と紹介したことにつながるのではないか。

  • 2012/5
  • 19世紀入華宣教師C.W. マティアの著作をめぐって
  • 宮田和子

マティア(Calvin Wilson Mateer, 狄考文 1836~1908) は教育者として名を馳せ、中国近代 科学の発展に貢献した。1900年の義和団事件以後になされた、中国人教師や生徒からの最 初の要望は、西洋の算数であり、時宜を得たマティアの本は多数の海賊版が現れるほどの 人気を呼んだ。
マティアと並ぶ山東地区のパイオニア、ネヴィアス(John Livingston Nevius,1829~1893)は、1886年から1887年にかけて"Methods of Mission Work"と題する論文を Chinese Recorderに投稿、やがて一連の論文は改訂、出版され、長老会本部の支持をバ ックに版を重ねた。布教熱に浮かされた若い信徒が多数海を渡ったが、実情は期待を裏切 るものだった。ネヴィアスのデータは不完全であり、例外的な事例を一般的なものとして とりあげるなど、誤謬と偏見に満ちていて、布教の拡大には重大な支障となるものである ことが明らかになった。
1900年マティアは苦悩の末に編集者の要望をいれて、かつての盟友ネヴィアスの活動方 針を批判、A Review of "Methods of Mission Work" を出版して、真相を公開した。

  • 2012/2
  • 肖像・風景画家チネリーと速記の謎をめぐって
  • 宮田和子

G. チネリー(George Chinnery, 1774〜1852) が遺したスケッチには、得体のしれない記号のようなものが書き込まれていることがある。日記がわりにと、当時流行のGurney System という速記術を使って記録したもので、後年ボンソール(Geoffrey Bonsall)は、友人との交換書簡から、雑誌や新聞の切れ端に至るまで、チネリーに関するあらゆる記録を掘り起こして、事実関係を明らかにし、ついにその解読に成功した。
チネリーは現存最古の英華・華英辞典を著した モリソン(Robert Morrison, 1782〜1834)の肖像画を描いた奇矯な画家として知られる。
モリソンに次いで辞典を著したメドハースト(W.H. Medhurst, 1796〜1857) は、アヘン交易に関わる船に乗ることを潔しとせず、ギュツラフ(Karl Friedrich August Gutzlaff, 1803〜1851) に遅れをとる。布教のためには軍との協力も辞さないギュツラフの強引さは、却って周囲の反感を買い、現地人の裏切りにあって憤死する。このギュツラフの肖像画を描いたのもチネリーであった。
清朝はメドハーストの広東滞在を認めず、メドハーストはやむなく迂回して、ベンガル最高裁判所首席裁判官ラッセル卿の歓迎を受ける。ラッセル卿の肖像画はやはりチネリーの手になるもので、当時絶賛を浴びて、東洋におけるチネリーの画家としての地位を不動のものにした。モリソン、メドハースト、ギュツラフはいずれも聖書翻訳の立役者として名高い。

本部月例会の発表内容要旨

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