各支部の大会情報等を掲載しています。

2005

  • 2005/12 其の一
  • 西吉十郎成度について(2)
  • 石原 千里

この発表は、第33回宮崎大会(1996.10)に続くものである。その一部は「阿蘭陀通詞西吉兵衛・吉十郎父子(1)」(『英学史研究』35、2002)のなかで少し述べたが、その後新しい史料に接し、これまでの報告を補足・訂正することとなった。
天保10(1839)年、西吉十郎は、数えの5歳で(9歳として)稽古通詞に採用されている。このような例は他にはみられない。嘉永2(1849)年15歳で小通詞末席、嘉永6(1853)年19歳で小通詞並、安政2(1855)年21歳で小通詞助、安政4(1857)年23歳で小通詞と、非常に早い昇進をしている。安政5年(1857)7月楢林栄左衛門とともに長崎英語伝習所頭取に任じられたことは知られているが、7月21日、彼は露国、英国御用のため急遽出府を命ぜられ、わずか5日の支度で、26日長崎を発った。江戸で御用をつとめた吉十郎は、10月5日には外国奉行支配普請役格として幕府に登用されたので、長崎英語伝習所頭取としての貢献は殆んどなかったといえよう。彼は、外国方の一員として常に森山多吉郎と協力して各国との条約文の精査、校正にあたる。また、各国公使、領事との対話、およびその記録、外交文書の翻訳などに森山を始め、立石得十郎、川原又兵衛らと協力して尽力している。ポルトガル、プロシアとの修好通商条約締結交渉に関わる。その激務の中で矢野次郎、尺振八らに英語教授を行なった。
西吉十郎は、阿蘭陀通詞として20年、幕府外国方および静岡藩に16年、明治新政府司法省に20年という人生を送り、大審院長に任じられ、阿蘭陀通詞出身者としては最も高い社会的地位と信望を得た人であった。
西吉十郎の妻は堀儀左衛門の三女(堀達之助妻および楢林栄左衛門妻の妹)、また、西家12代である吉十郎の実祖父(11代吉兵衛の実父)は8代吉郎右衛門成之であったなど、西吉十郎の親族および阿蘭陀通詞西家(父方)、中山家(母方)、堀家(妻の実家)の人々についても多くの新しい発見があった。

  • 2005/12 其の二
  • 英和対訳袖珍辞書における鳥の名の考察
  • 三好 彰

我が国で最初に印刷刊行された英和辞典である英和対訳袖珍辞書は文久2年(1862)に初版、4年後の慶応2年に改訂版が出た。この改訂版は版木を変えて慶応3年と明治2年に増刷された。慶応2年版をもとにした薩摩辞書が明治2年(和訳英辞書)、4年(和訳英辞林)に出た。 英和対訳袖珍辞書に出ている鳥の名前(177語)から、これらの辞書の諸相を探った。下記のことが分かった。

  • この辞書はPicard辞書1857年版に準拠したことが知られているが、文久2年版には同辞書の1843年版の影響を受けた4語がある。
  • 慶応2年版にはPicard辞典に出ていない2語がある。
  • 従来、蘭和辞典として和蘭字彙に拠ったとされてきたが、そのほかに波留麻和解や譯鍵なども活用したのが確認できた。しかしこれらの蘭和辞書の訳語と符合している鳥の名は半分にもならない。
  • 当時最新だった英語辞書(Webster, Worcester)を活用したことは確実だが、その辞書は確定できなかった。編集者に高い英語力があったことがしのばれる。
  • 当時の英語辞典だけでは鳥の名前が確定できないので、鳥図鑑を利用したことが考えられる。Perryの献上品が候補になる。
  • 慶応3年版と明治2年版には慶応2年版にない誤植がある。鳥ではないがPicard辞書中で唯一つ日本語から英語になった言葉であるMoxa(モグサ)が誤植になっている。
  • 薩摩辞書は先行する版の誤謬を訂正しており英和対訳袖珍辞書の完成版と見なせる。
  • 和訳英辞林はWebster辞書をもとにして改訂増補したことが序文に書かれているが、Dr. Webster’s Complete Dictionary(1864)であることが確認できた。
  • Picard辞書が出てから1世紀半経過して現在では古語になっている鳥の名が多いことが分かった。
  • Picard辞書に誤記が散見されるので、関係者の苦労が伝わってきた。
  • 2005/10 其の一
  • 外国人による能/謡曲研究の今昔
  • 東苑 忠俊

明治の開国を機に来日したチェンバレン、アストン、ノエル・ペリ、クローデルなど複眼的見識をもつ外国人たちは、数百年間に亘って国外に閉ざされていた能・謡曲の文学性、「夢幻能」の作劇法などに魅せられて多数の先駆的著書を残し、それが後年、河村ハツエ氏のチェンバレン論など幾つかの業績検証の成果に導いた。初世梅若實に入門したフェノロサが書き残した能楽ノートは、エズラ・パウンドが共著とし、それに啓示を得たW.B. イエイツのAt the Hawk’s Wellは、『鷹の泉』などとして「里帰り」の日本公演を重ねている。
一方、A. ウェイリー訳の謡曲に感銘をうけたD. キーン氏は能狂言の世界的外人研究家となり、R. タイラー(ウェイリー、サイデンステッカーに次ぐ『源氏物語』訳者)、M. ベーテなどの勝れた能楽研究・実践家を育てた。世界各地の研究者も、能の中の草木成仏の仏教思想から「横道理論」による世阿弥作品とギリシャ悲劇との構成比較や、能面、装束などとテーマに幅と深みを加え、さらにJ. ルービン氏(ハーバード大)提唱の約30名の能楽師、囃子方、内外の研究者を交えた多角的グループ研究から、外国人による能の実演、海外の学生に対する「英語能」の指導にまで発展。また近年盛んな海外公演や2001年の能の世界無形文化遺産指定は、外国人による能楽研究と能舞台接触の機会を深め、明治初期の先駆者による点火は、130年後の今日、末広がりの反射光を世界に投じている。
謡曲の外国語訳には、古典の引用、枕詞、「台詞担任の不合理」「対話と叙述の混合」などの修辞法の困難があるが、市河三喜編の日本学術振興会謡曲英訳3巻50曲を初め、先駆者・後継者たちの訳業は、今日250曲を超えている。武蔵野女子大能楽資料センターや野上記念法政大学能楽研究所などの国内機関における継続的研究は、上掲の外国人による研究をさらに推進し、その努力は新たな次元・方向へと向かいつつある。

  • 2005/10 其の二
  • 英字新聞による2.26事件の回顧
  • 田中 順張

昭和11年2月26日未明から東京市及び周辺は豪雪に見舞われて、交通は遮断され新聞の宅配も滞った。情報が途絶えていた数時間の間に、当時の正規陸軍部隊が決起して都心の麹町一帯、永田町界隈に出動して、政府要人を虐殺した。
Uprising force は、1,400人の歩兵第1,第3連隊の兵士で、指揮官は大尉、中尉、少尉の下級士官ばかりだった。
この変事の第1報は、当時のJapan Central Broadcasting Station からの JOAK の臨時放送だった。犠牲者は岡田啓介首相(海軍大将)、斉藤実内大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総督(陸軍大将)らは死亡、高橋是清蔵相、鈴木貫太郎侍従長(海軍大将)は重傷と判明。陸軍大臣川島義之大将は、首謀者の香田清貞大尉から、国家改造、昭和維新の断行を実行する様要求され、困惑した。
Japan Times はつぎのようにこれを報じた。

… the purpose of the uprising was to eliminate those destroying the national polithy,such as Genro,statesmen close to the Throne, financial magnates, the military clique, bureaucrats, and political parties at the present crisis.

これに対し27日午前2時30分奉勅命令が出て、戒厳令が発令、陸軍省が治安と秩序を回復する様に要求した。
そして事件発生以来僅か4日で閉幕し、反乱軍は原隊に帰り、指揮官の将校らは全員処刑と決まった。市民は平静で、クーデター失敗がその後の徴兵制度に支障を及ぼす結果となった。3月1日の紙面で、岡田首相は健在だったことが判明。影武者が犠牲となった。

All Troops Surrender, Disturbance Quelled:
15 Officers Yield And Are Dismissed From The Army;
Troops Return To Barracks:

事件の終幕を陸軍省は次の様に発表した。

Minister Of War Issues Statements that all troops under the 15 young officers who had caused the uprising on Friday 26 had given themselves up to the commander of the Martial Law Headquarters.

事件後、米、英など友邦各国から犠牲となった首脳に対する弔電が寄せられ、海軍に人気が集まった。

  • 2005/9
  • 杉村楚人冠と英学
  • 水野 修身
    (防衛大学校)

杉村楚人冠(1872~1945、本名、広太郎)は博学多才な人であり、明治・大正・昭和期にかけての三大ジャーナリストの一人としてよく知られている。他方国際人として英語が堪能な英文家であり、英学者としてのすぐれた一面も持っており、英学史上忘れられてはならない人物である。今回の発表では杉村楚人冠の明治5年に生まれて昭和20年に彼が没するまでの略年譜を紹介した。彼の英学修業での重要な学校を挙げれば、彼が1887年(明治20年)15歳で和歌山から上京したのちに入学した、英吉利法律学校(中央大学の前身)、1889年から1年半近く学んだ国民英学会、1893年から3年近く学んだ自由神学校(後の先進学院)の3校であり、特に国民学校でのイーストレーキから学んだ影響が大きく、その後彼との親交が続いた。また、彼は英学教師として、明治27年以降4年間ほど東京学院、京都本願寺文学寮、正則英語学校等で活躍している。その一方、明治20年代には英文の翻訳や『英学新誌』等の英学雑誌等に投稿したり、特に彼は主筆として明治27年雑誌『英学』を発刊し、2年近く発行した事は重要である。彼は明治32年、米国公使館に入り、明治36年12月東京朝日新聞に入社するまで、翻訳や通訳に従事した。
楚人冠には彼が執筆した英学関係の雑誌記事が非常に多くあり、『英語青年』、『日本英学新誌』等に投稿した記事について紹介した。また、楚人冠の英文著作、楚人冠全集18巻、楚人冠の英文翻訳の業績、楚人冠の新仏教運動へのキリスト教ユニテリアン派の影響、楚人冠と交流のあった著名な英学史上の人物等の計32名を紹介し、併せて夏目漱石、岡倉由三郎、南方熊楠から楚人冠に宛てた書簡のコピーを提示した。

  • 2005/7
  • 近代日本留学生史の試み
  • 塩崎 智

明治維新、そしてその後の日本の西洋化に、欧米派遣留学生が果たした役割は過小評価されるべきではない。石附実先生の『近代日本の海外留学史』以降、留学生個人の研究はそれぞれ着実な進歩を遂げており、それらの情報を統合する時期が到来しているように思われる。「近代日本留学生史」確立に向けて、当座の検討事項として、次の諸点が挙げられるのではないだろうか。

  • 留学生の変名を調べ、人物の異同を確認する。
  • 留学先(町名、学校名)、滞在期間、関連人物(交際相手、恩師など)を確認する。
  • 留学生同士の交流関係を突き止める。
  • 以上の情報を確認するために、現地資料を最大限活用する。
  • 上記の作業はとても個人では不可能なので、現地調査経験のある信頼できる研究者間のネットワークを確立し、協力体制を築く。
  • 日露戦争中など、日本関連の話題が盛りあがった時期の新聞記事を渉猟し、過去の新事実を突き止める。

今回の例会では、参考までに、日露戦争中の新聞、雑誌記事を渉猟していて、1.イエール大学図書館司書、ジャパノロジストであるアディソン・ヴァン・ネイム、2.明治初年、ブルックリン・ポリテクニック・インスティチュートに留学していた華頂宮(変名:東隆彦)、3.ニューイングランド・コンサーヴァトリー・オブ・ミュージックに伊沢修二がかつて寄付した日本楽器のコレクション、の3つの日本人留学生関連記事を発見し紹介した次第である。

  • 2005/6
  • 英学と長崎
  • 茂住 實男

この度の発表は英学発祥の地である長崎の史跡や記念碑、また史料などを写真で紹介しようというものである。それぞれの写真はこれまで長崎へ調査に出向いた折に撮影したもの、展示会等で作製された冊子から複写したものが中心で、50枚ほど用意した。そしてそれぞれを映し出しながら、関係のある事柄を紹介した。
まず長崎の中心街を江戸時代の地図と現代の地図とで見比べながら、長崎奉行所西役所(現長崎県庁)と長崎奉行所立山役所(現県立美術博物館など)を確認した。さらにもう1か所大音寺。この3か所は、立山役所を頂点に、西役所と大音寺を底辺にしておよそ二等辺三角形をなしており、これを頭に描いておけば、英学発祥に係わる重要な史跡の位置はほぼ見当が付く。長崎奉行松平図書頭康英はフェートン号事件の責任をとって切腹するが、その場所は西役所。この事件を契機に幕府が英語稽古を長崎通詞に命じたことは本会会員の間では常識である。図書頭の墓は大音寺にあり、また当時長崎町民は図書頭に対して深く哀悼の意を表し、諏訪神社境内に康平社(図書明神)を祭ったが、その諏訪神社は立山役所に隣接している。また同役所の上手は岩原目付屋敷だが、そこに英語伝習所が設けられた。英学草創の頃の史料を所蔵する県立長崎図書館も立山役所跡の一角にある。
こうした調子で写真を紹介したが、写真を見ながら、四半世紀も前になるであろうか、長崎港を前にしてまた図書頭の墓前でフェートン号事件を想像したことを思い出した。また、「他の研究と同様に英学史の研究にも想像力は欠かせないが、その想像力も事件の起こった場所や施設のあった場所に立ってこそ、また当時の史料に接してみてこそ、際立つのではないか。」と言われたことも思い出した。

  • 2005/5
  • 英国協会について
  • 楠家 重敏

2008年に100周年を迎える日英協会のルーツは1905年にさかのぼる。同年12月のロンドンの日本協会の理事会の決議により「日本協会に関連した姉妹協会を日本で設立」することになった。当初、日本でのイギリス研究の中心となるべく英国協会が構想されていた。ところが、3年後の1908年に創設された英国協会では「年1回晩餐会を開催すること」に重点が置かれ、イギリス研究の場所ではなく、日英関係の調整のためのサロンに変わっていった。日英同盟が結ばれて、日本の新聞(邦字も英字も)は英国協会の晩餐会を大きく報道した。1908年の会は帝国ホテルだった。
翌日の新聞は「英国協会成立(加藤大使送別会)」との見出しをつけた。第2回は1909年11月に日本倶楽部で行なわれた。ボーア戦争に功績があったキッチナー将軍を主賓とした。第3回の会では総裁として伏見宮が就任した。1911年4月には英国大使マクドナルドのためにガーデンパーティが開かれた。また同年10月には社会改良家シドニー・ウェッブによる講演会があった。第5回の1912年の回では退任するマクドナルド大使の送別会が行なわれ、第6回の1913年の会では新任のグリーン大使の歓迎会となった。しかし、1913年の会を最後に日本の新聞は英国協会の記事を書かなくなった。

  • 2005/4
  • 山本五十六を教えたH. B. ニューエル
  • 北垣 宗治

Horatio B. Newell (1861—1943)はアメリカン・ボード宣教師として1887年に来日し、新潟県長岡で4年、新潟で12年、愛媛県松山で19年、ソウルで7年間働いた。彼が「長岡学校」で英語を教えたのは1888年から1892年までで、このとき高野五十六(のちの連合艦隊司令長官山本五十六)は4歳から8歳であり、五十六よりも10歳年上の甥、高野力も五十六もニューエルの家や長岡教会に出入りしていた。ニューエル夫妻は長岡の町に定住した最初の外国人だった。五十六の父、高野貞吉の日記には、1892年9月6日の項に、新潟に移るニューウエルを父子で信濃川の船着場まで見送ったことが書かれており、その部分は阿川弘之の『山本五十六』にも引用されている。五十六の聞いた最初の英語はニューエル夫妻の英語であったと考えられる。
最近ニューエルの自叙伝(英文で164頁)を見る機会があり、彼のアメリカでの幼少年時代、アーモスト大学、シカゴ神学校時代、長岡・新潟時代、松山時代について、概観することができた。ニューエルは新潟の北越学館で一年余り教えたが、初代教頭に迎えられた内村鑑三が引き起こした事件には、長岡にいたため巻き込まれなかった。1924年に神田乃武の葬儀が、アーモスト大学の後輩である内村の司式によって行われた時、ニューエルもまた列席しており、内村による感動的な追悼説教を聞いた。葬儀のあと内村とニューエルが雑談中、内村は、次は自分が死ぬ番だが、天国に行ったら真っ先にアーモスト大学のシーリー学長を探し出し、「帰国後は日本人の間に福音を説いてまわります、と先生に堅く約束しましたが、その約束をはたしました、と報告するつもりです」と語った。興味深い証しである。彼は長岡に初めて野球を伝えたアメリカ人であり、松山時代には日露戦争で捕虜となったロシア人を週一度ずつ宣教師館を開放して世話する博愛の人だった。

  • 2005/3 其の一
  • つとつとお話になる85歳の先生から、英学史学会草創期の思い出をうかがうことができ、41名の学会員ほかの出席者は幸せでした。先生の息子さんのお二人もご出席くださり、ご講話する“父親”をまた違った視点から眺められたことだと思います。以下は先生のお話の一部ですが、概略的にまとめてみました。
  • 報告:庭野吉弘
  • 400回記念 特別講話 「英学史学会草創期の思い出」
  • 高梨 健吉 先生

英学史学会に入ってから40年が過ぎた。その間に多くの先達から英学研究の道に導かれた。こういう学問があったことに嬉しくなり、また同時に自分でもやれるかな、と思った。英学は奥が深いことも知らされた。
最初に出席したのは青山学院大学での研究会だった。池田哲郎先生の勧めで研究会(まだ学会ではなかった)にも入った。「高等英文法」などでも有名だった倉長真先生もおられた。研究会に出席して多くの先生方とお話をし、教えていただきながら、英学史というものが“身にしみてくる”ようになった。英学史の研究会を盛り上げてくれたのは、池田先生のご尽力のおかげだと思った。言ってみれば、我々はある意味で「池田スクール(学校)」の弟子みたいなものだった。幕末の緒方塾や福沢塾のようなもので、鍛え上げられていったのだと思う。
英学史が学問研究として認められるのか、という不安も確かにあった。どうも“研究”論文とは読んで難しいもの、と考えている人が多いようだが、自分は違う。研究したものを分かりやすく書くべきものだと思う。ただ、研究社の英語年鑑の研究業績の報告のところに英学史もひとつのジャンルとして認められるようになったことは、学会にとっても嬉しいことだった。
手塚竜麿先生からは資料の重要性を今更ながら教えられた。先生は実にいろいろな資料に精通していて、そういったことを我々に面白く話してくれた。英学史が扱う領域も実に広いということも教えられた。
月例会会場は、青山のあとは戸板女子短期大学、昭和女子大学へと移っていった。昭和女子大学は池田先生が移ってこられたところで、長らくここに皆が集った。月例会のあとは喫茶店ブレーメンやその後の吉野家などで飲みながらまた話に花が咲いた。こういった場所でいろいろ教えてもらうことも多かった。英学史学会には一匹狼的な人が多いな、ということも感じた。
とにかくいろいろ書いた。書けば勉強になる。偉い先人たちのおかげだということも忘れてはならない。池田先生発案の英研セールで池田先生が持っていた雑本類が売り出されたが、安くていろいろ掘り出し物もあって楽しかった。神保町の古本屋の雰囲気だった。これなども懐かしい。また池田先生は会計なども一人でやっていて、我々には手を出させなかった。経済的に大変だったと思う。事務面でも発送の荷物の宛名などはすべて奥様が書かれた。
好きな英学史を半生の40年もやってこられて感謝している。

  • 2005/3 其の二
  • 井田先生は、日本英学史学会発起人のお一人で、現在82歳でいらっしゃいます。配布資料5枚を用意され、創立当初の様子、出会われた方々、そして古書などについて、お話されました。配布資料には、第1回大会プログラム、九州大学における豊田實教授の「英学史」講義題目、矢野峰人博士の色紙コピー2枚、それに『諳厄利亜興学』長崎原本と玉里文庫本との対照写真コピー等があります。以下は井田先生ご自身にまとめていただいたものです。
  • (司会:小玉敏子)
  • 400回記念 特別講話 「英学史学会回顧―人と古書との出会い―」
  • 井田 好治 先生

はじめに「英研回顧録」と題する第三代会長故池田哲郎氏の一文を引いた。「日本英学史研究会」として、昭和39年7月11日、青山学院大学倉長真研究室を事務局に発足した。会長は豊田實、副会長は吉武好孝、顧問には市河三喜、新村出が名を列ねている(昭和42年8月1日発行の会員名簿)。会員数はこのとき162名、昭和44年5月1日で184名、同47年1月1日には209名に達していた。
創立一周年を記念して、昭和40年9月4日、千葉県立佐倉高校を会場に第一回全国大会が開催された。研究発表11件、講演3件、翌朝には「日本英学導入史の研究―英語英文学を中心として」というテーマのシンポジウムも開かれた。参加者153名、盛会であった。
次に、初代会長豊田實が昭和20年9月の定年による退官までの20年間に、九州帝国大学文学部で授業された「日本英学史」関係の講義・演習の題目を紹介した。昭和3年度第1学期の “History of the Study of English in Japan” を最初に14回に及ぶ。沙翁翻訳史もある。新渡戸稲造の Bushido を演習のテキストに用いられてもいる。
ここで話題を転じて、英学最古の文献『諳厄利亜興学』と『諳厄利亜語林大成』の発見に触れる。鹿児島大学文理学部に赴任した翌年(昭和37年)秋の大学祭で、島津久光旧蔵の玉里文庫本展示会場で、はからずも両写本25巻を見出した。これを『英語青年』(昭和38年2月号)に投稿、掲載された。今回長崎原本との対照の写真コピーを配布した。
鹿児島大学在任中、恩師矢野峰人博士に集中講義をお願いした。昭和38年11月下浣のころ、博士歓迎の宴で次の漢詩を色紙に書いて下さった。「飛紅萬點愁如海」(秦少游)。鹿児島大学着任直前に戴いた「落花與流水悠然背人去」と共に私の書斎を飾っている。(文中敬称略)

  • 2005/3 其の三
  • 高梨、井田両先生のほかに第6代会長の速川和男先生にも過去を振り返って頂き、貴重なお話を聞くことができました。軽妙なお話し振りの中にも学会の今後に対して提言・苦言をお出しくださり、会員一同は学会を更に発展させるためのエネルギーと刺激をいただきました。
  • 報告:庭野吉弘
  • 400回記念 特別講話
  • 速川 和男 先生

創成期の名簿を見れば、如何に錚々たる顧問や会員を擁していたかがよく分かる。広い分野からの参加があったが、当初は現在のように外国人会員はいない。会合は初代豊田会長の縁から青山学院で始まり、戸板女子短大、昭和女子大、東京都勤労福祉会館と移り、現在の浅草公会堂となった。当初は80歳代の斯界の長老をお招きして特別講演をお願いしていたが、依頼する前に亡くなった例もある。例会の発表者は原則として毎回2人で、当日の発表要旨がガリ版刷のパンフレットの形で配布されたので、いい加減な発表は出来ず、保存にも便利であった。発表について当時から問題になったのは、英学史から逸れた内容と、原稿の単調な棒読みである。発表内容は明治の半ばごろまでに限定すべきという意見もあり、将来は分化していくかもしれず、一例としては、当学会の中心メンバーの主導によって日本英語教育史学会が創立した。分裂という印象を一部に与えたようだが、その誤解はその後の両学会の発展と友好関係が払拭した。但し、当学会における教育関係の発表が減少したことは否めない。当初の「研究報告」は「紀要」に発展し、応募原稿の審査は、名誉ある豊田賞と共に厳密な審査が行われており、これらすべての情報は充実した「会報」(季刊)に掲載されている。
年次大会は学会の存在意義を知ってもらうチャンスであるが、開催地の決定と該当地のご苦労は大変なもので、各支部と本部の連携が重要である。役員については新会長が副会長と相談の上、自由に組織替をした方がスムーズに行き、また発表者不足の場合には委員がいつでも代打に立つという不文法を再確認すべきである。発表者は先行研究をふまえ未開拓の分野を開拓する努力をし、一方司会者は発表者に肉薄する位の準備をするのは当然であろう。フロアーから、幻に終わった『日本英学史辞典』のいきさつの説明、年間特定テーマの設定などの提起があり、論文集のシリーズ化や海外大会の可能性も俎上に乗った。

  • 2005/2 其の一
  • 『武信和英大辞典』の改訂 -- 武信の残した書き込みの調査
  • 三好 彰

大正7年に刊行された武信和英大辞典は改訂を繰り返して、現在も研究社・新和英大辞典(第5版)として広く愛用されている。この辞典の最初の改訂は昭和6年であったが、その前年に武信由太郎は他界していた。 筆者にとって武信由太郎は父方の大叔父にあたる。その関係で初版(大正7年印刷)の辞典に武信自身が多数の書き込みをしたものが伝わっている、形見分けだったようだ。 武信の筆跡は癖が強かったと同時代の関係者が口を揃えて述べているが、字の裏にある学識の深さがそれを凌いでいたわけであり、実際に手沢に接するとその感が一層深まる。 書き込んでいる内容は、語句や例文の追加、削除、修正などを具体的に示したものである、また初版の記述に不具合を感じていたためだろうが見直しを指示しただけのもある。これらの一切を含めると書き込みの件数は800以上である。 書き込みのなされたページには薄い和紙の付箋が付けられている。付箋のなかに武信の名前や住所の一部が書かれたのがある、自分宛に届いた手紙を再利用しているわけであり興味を引く。和紙は極薄いので付箋が付いている割には辞典全体としてそれほど膨れ上がってはいない。
これらの書き込みを改訂第2版(昭和6年3月印刷)の該当部分と逐一比較したところ、約半数の書き込み内容が改訂2版に盛り込まれていることが分かった。書き込みが改訂のための作業だったことが裏付けられた。
改訂2版は初版に比べてページ数を7%程度減らした上で語彙を大幅に増加するという大改訂であったが、書き込まれた内容は改訂2版の全貌を示したものではない。改訂2版のための武信の遺稿があったとの記録があるが、この書き込みのある辞典は遺稿の前段に位置づけられるものと考えている。
この辞典をこれまで死蔵させてきたのを気にかけていたが、幸いにも武信が長く関係していた大学に引き取っていただけることになった。この分野の研究者にご活用いただければ幸いである。

  • 2005/2 其の二
  • 現代日本文学におけるJoseph Conrad
  • 後藤 隆浩

ジョウゼフ・コンラッドは、ポーランド出身、船員経験、英国帰化といった特異な経歴の作家である。コンラッドの文学史上の位置は、日系の作家カズオ・イシグロの出現により、より明確に定まったものと思われる。コンラッド研究における海洋作家から政治的作家へのイメージの転換により、作品の意味も解明されてきた。
コンラッドの政治性、現代性を戦後の早い段階から指摘していたのが、佐伯彰一氏による一連のコンラッド論である。孤独の探究者、孤独感のすぐれた造型者、政治的保守主義者といったコンラッドの本質、そして古風な物語芸術家としての後衛性といった芸術性の核心の解明により、現代日本におけるコンラッド受容の方向が固まったといえよう。
1983年、コンラッドの中短篇小説の翻訳の解説として書かれた篠田一士氏のコンラッド論においては、近代ヨーロッパ小説におけるコンラッドの位置が考察されている。コンラッドが、短篇、中篇、長篇の三つの小説形式を完全に書き分けた完全な小説家であったことが指摘され、小説言語の探究と物語性の保持、視点小説の工夫といったコンラッド作品における20世紀の小説言語の特性が解明されている。
小説家辻邦生氏は、篠田氏との対談において、創作者の立場から文体のディナミスム、ナレーションの力、視点の自在な変化、イマジネーションの湧き立ちといった、コンラッド文学の魅力と影響について述べている。
鼎談「批評の戦後と現在」(江藤淳・加藤典洋・竹田青嗣)は、昭和末期の重要な座談会の一つと思われるが、言語と文学をめぐる問題が熱心に議論されている。ここでは母国語、国籍、文学表現に関する思考のモデルとして、コンラッド文学について言及されている。

  • 2005/1
  • 早稲田で教えた初期の同志社出身者
  • 北垣 宗治

木村毅『早稲田外史』(講談社、1964)によれば、大隈重信の東京専門学校は最初1882年に東大出身の高田早苗、天野為之、坪内雄三という「三尊」によって基礎が置かれた。しかし政府に対する「謀反人」の作った学校であるということで危険視され、官吏は東京専門学校の教壇に立つ事を禁じられ、その上、帝国大学総長の監督下におかれるなどの圧迫を受けた。本書の第17章は「同志社学風の輸血」と題され、すぐれた教員確保に困っていた時期に同志社出身者が続々と送り込まれ、新しい学風の樹立に貢献したことが論じられている。すなわち大西祝、岸本能武太、浮田和民、安部磯雄である。木村は杉山重義も同志社出身者であるかのように述べているが、これは事実誤認である。しかし、東京専門学校で一番早く教えた同志社人は1890年の家永豊吉であって、この事実は太田雅夫が発見するまで知られていなかった。佐藤能丸「初期の同志社人と早稲田大学」(同志社編『新島襄――近代日本の先覚者』[1993]所収)はすぐれた先行論文だが、やはり家永を落としている。この報告ではまず同志社出身の家永を早稲田大学史に正しく位置付けるべきことを提案する。
これら五人の東京専門学校への就職は家永(1890)、大西(1891)、岸本(1895)、浮田(1897)、安部(1899)の順で、1890年代に集中している。新島襄が1890年1月に永眠し、そのあと小崎弘道、そして横井時雄が社長(総長)を継ぐが、この10年間は同志社にとって最も困難な時期だった。政府がキリスト教学校を圧迫したため生徒数は激減。同志社設立以前からの支援者だったアメリカン・ボードとの対立と絶縁。キリスト教色を薄める工夫とそれに対する反対運動。浮田や安部は正統主義的キリスト教の考え方についていけず、同志社を飛びださずにはいられなくなっていた。宣教師のいない自由な早稲田こそが彼らに生きて働く場を備えたのであった。

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