各支部の大会情報等を掲載しています。

2011

  • 2011/7
  • 1884年出版A. D. Gring編纂の漢和英字書について
  • 沼倉研史

米国のDuke University中央図書館に収蔵されているMary Swold Paperは個人的な書簡集であるが、その中に宣教師の妻として日本に滞在していたHarriet Gringが、母国の母と姉に宛てた私信約百通が含まれている。1879年~85年の手紙の中で、 Harrietは夫の Ambrose D. GringがChinese-Japanese-English Dictionaryを編纂出版したことについて度々触れている。このDictionaryがどのようなものであるかについては長らく不明であったが、この度宣教師の同僚で、東北学院の創立に深く関わった初代副院長W. E. Hoy師の遺品の中に「對譯漢和英字書」、「米國虞琳嵎編纂」との標記のある使い込まれた革装丁の辞書が見出され、これがGringの辞書と同定された。 出版は1884年となっており、Harrietの手紙の記述に符合する。英文書名はEclectic Chinese-Japanese-English Dictionaryである。
正式な書名が判明したことにより探索を試みたところ、世界中の多くの大学、資料館等で保管していることが確認された。一方で、本字書に関する研究は極めて限られたものであることも判明した。また、Gring夫妻の業績についての研究の多くは一面的であり、字書の出版を含めて全体をまとめた報告は見当たらない。これは、A. D. Gringが当初ドイツ改革派教会から日本に派遣されたものが、 1880年代末に米国聖公会に転籍したことに少なからず起因しているものと考えられる。
字書自体の構成は、部首に準じて配列された漢字ごとに、日本語の読みと意味、さらに英語で部首構成と意味が併記される形になっている。収容字数は八千字を越えている。字書の構成から、日本語の学修を目指す英語話者用と考えられるが、このような構成は前例が見当たらず、A. D. Gringの創意による可能性がある。Gringは来日からわずか5年で本字書を出版しており、日本人による援助があったものと考えられる。 著者は序文の中で、辻静(Mr.)なる人物に謝辞を述べているが、その経歴については明らかになっていない。

  • 2011/6
  • W.E.グリフィス宛金子堅太郎書簡の内容と背景の考察
  • 塩崎 智

金子堅太郎は新渡戸稲造、渋沢栄一等と並ぶ知米派日本人として知られている。しかし、彼がどのような形で日本と米国を繋いでいたのか、という史実の検証は十分に行われてきたとは言えない。筆者は、日米交流史上に金子を位置づける場合、まず金子の著名な米国人との交流内容を精査する必要があると考えている。そしてこの研究の一環として、これまで金子発米国人書簡を読みその時代的背景との繋がりを考察してきた。
今回は、米国ラトガーズ大学に保存されているウィリアム・エリオット・グリフィス着金子発書簡を取り上げた。グリフィス宛書簡は、これまで発見された金子発書簡数としては、オリバー・ウエンデル・ホームズ・ジュニア米国最高裁判事宛に次ぐ22通である。時期は日露戦争以降に集中しており、両者の関係は同戦争中の金子の渡米により深まったと考えられる。
金子もグリフィスも、米国人に米国のマスコミを通して「日本」を知らせる事に半生を費やした。その際お互いに活発な情報交換を行っていたことが分かる。しかも、メデイアに発表する際に、お互いがソースである事を明かす必要が無いという、かなり高い程度の信頼関係に基づいていたようである。関東大震災によりグリフィス発金子着書簡は現存しないが、他のグリフィス関連資料を読み解くことにより、両者の関係の考察を深めることが出来るのではないかと考えている。

  • 2011/4
  • 齋藤修一郎の英文自伝―西洋との出会いとその衝撃
  • 川瀬 健一

齋藤修一郎が1874(明治7)年3月開成学校法科1年の時に恩師グリフィスの求めに応じて書いた英文自伝の紹介と考察を行った。この英文自伝は、Edwardという人物の半生を第三者が語る形で書かれていて修一郎の署名はないが、Edwardの経歴が修一郎の経歴と一致するので彼の自伝であることは間違いなく、そしてそこには1907(明治40)年の彼の「懐旧談」では語られなかった興味深いことが語られている。一つは、東京に出て英学を通じて欧米の学問を学び、どのように人生観や世界観が変わったかを述べたこと。武生にいた間は、商業や取引の重要性も知らず武士の支配が永久に続くと思い、日本が世界の中でどのような位置に置かれているかも知らず、ただ自分自身の立身出世のみを考えていた井の中の蛙であったと彼は述べる。しかし東京で近代学問に触れて、世界には日本以外により力の強い国々がたくさんあり、この国々に侵略されないためには国民性や国民的結合が極めて重要であることと人々をこの認識に導くには教育が重要だとの認識に達し、このために役立つ人間になりたいとの境地に至ったと述べる。修一郎が出会った西洋とは、均質な国民として統合された民が主体となった国民国家であったわけで、ここに向けて日本を変えるために寄与したいと彼は考えたわけである。他の一つは、法科を選んだ理由を明確にし、今後の日本にとって国際関係がとても重要であり、外交官がしばしば国際法すら知らないことは国益を損なうことを知った故であると述べたこと。つまりこの英文自伝は、修一郎はすでに法科を選んだ1873(明治6)年の時点で、外交官を指向していたことをも示す重要な資料である。

  • 2011/3
  • 朝河貫一研究の紹介
  • 増井 由紀美

朝河貫一は1873年福島県二本松に生まれ、1948年避暑先のワーズボロで74歳の生涯を閉じる。The Documents of Iriki(1929)を著した国際的比較法制史家として、また今尚読み継がれている『日本之禍機』(1909出版、1985年復刻)の著者として知られている。早稲田大学に学び、坪内逍遥や大西祝に師事。横井時男に導かれキリスト教徒となる。大学卒業後横井の推薦を受けダートマス大学に留学。さらにイェール大学より博士号を授与され、歴史学者・教育者・図書館司書として人生の大半をニューヘイブンで送る。
朝河の遺品はイェール大学の同僚が中心になり、学術的に価値ある史料は主に大学図書館に残されることになった。現在はイェール大学図書館に『朝河文書』(Asakawa Papers)として保管されている。私の朝河研究はこの史料の紹介が中心になっており、ここ数年は朝河が研究休暇で帰国していた2年間を含む1910年代に書かれた英文日記をもとに朝河の交友関係を検証しながら論考を発表している。
朝河貫一研究に関しては、『朝河貫一書簡集』(1990)の出版以来、朝河貫一研究会(現会長:早稲田大学教授山岡道男)がその拠点になってきた。主に会員による研究報告会が年に4回開かれ、その報告要旨を掲載した『朝河貫一研究ニュース』が発行されている。

  • 2011/2
  • 「変則」教授法について
  • 茂住 實男

変則教授法のキーワードである会読を中心に述べた。
正則、変則という用語が、いわゆる「先づ綴字発音から精確にして進む」英語(教育)を指し、「発音は第二位に置いて、意義の解釈を専らにする」という英語(教育)を指すようになるのは、「学制」の制定された1872年からその翌年にかけての頃である。当時はそれぞれに役割があり、正則と変則の間には優劣はなかった。変則は、英語の4技能のうち、読むことが実用であった時代に、その役割を十分に果たした。訳読の学力は素読(の課程)で文法知識を身につけた後、会読(の課程)を経て養成された。会読は共同学習形式で行われるもので、同学と同一教材に取り組み、文法知識と辞書を駆使して徹底研究することによって学力をつける方法である。変則教授法というのは素読・会読と密接に結びついていた文法訳読法と言ってよいと思う。
素読・会読は元は漢学修習の方法であり、それが蘭学学習に採り入れられ、さらに英学の学習法となった。先行研究によれば、会読を「教育効果を上げるための方法」と認識して漢学教育に導入したのは荻生徂徠である。その後会読は弟子から孫弟子へと伝えられていく過程で改良を加えられる。会読を教育方法として組織化したのが亀井南冥であった。亀井塾の学規によれば会読は、1問答ごとに「勝負」(成績)を記録し、席順は成績順とし、進級は首席を連続3回保持してはじめて認められるなど、個人の能力を重んじる、学力本位・実力主義に貫かれ、そこに競争主義が導入されていたことが知られる。
会読のその後の伝播の一例を示せば、南冥(漢学塾)→広瀬淡窓(漢学塾)→坪井信道(蘭学塾)→緒方洪庵(蘭学塾)→福沢諭吉(英学塾)となる。

  • 2011/1
  • 『英和対訳袖珍辞書』初版の編纂に参照された辞書類のことなど
  • 石原 千里

この辞書は、その畧語之解Abbreviationsに底本Picard—1843、 1857にはないv. a.(他動詞)、v. n.(自動詞)、irr.(不規則)、reg.(規則)を記している。本文では、自他両用になる場合の表記は、“v. a. et n.”あるいは“v. n. et a.”である。堀達之助の独自の工夫といわれているこれら動詞の略記を、堀達之助はどのように定着させたのだろうか。堀孝彦・三好彰両会員のご労作、新著『解読』港の人、2010、により探ることにした。
編纂期間に蕃書調所に所蔵されていた様々な辞書のなかで、英蘭辞書Holtrop—1823とBomhoff—1851がv. a., v. n.を用い、Holtropには“v. a. et n.”,“v. n. et a.”がある。Hooiberg-1843はva., vn.としている。英語辞書Webster—1849、1856、1860の略記はv. i., v. t.であるが、Worcester-1858、1860は英蘭辞書と同じくv. a., v. n.を使用している。
草稿の段階では、a., n.,“a. et n.”のようにv. がない、“v. a. et v. n.”とetの次にもv. を付けている、Hooiberg と同じであるが自他両用の場合に”va., vn.”のようにetを付けていない、あるいは、Bomhoffと同じに“v. n. & a.”としている、など様々であった。
不規則動詞 irr. の略記はBomhoffの本文から得ている。刊本全体をみると、Bomhoffにirr. があるのに付けていない語がかなりある。逆に、Bomhoffでは落しているが校正で付けたCastのような例もある。Sewel—1766に品詞の表示はないが、その訳語とか、あるいは語の見やすい配列からヒントを得ていると思われる。蘭語辞書の各種Weilandをも参照したかもしれない。蘭和辞書、英華辞書に加え、上記の辞書類を参照した可能性がある。
文久2年(1862)3月15日、伊藤圭介が堀達之助から聞いた話によれば、その時点でこの辞書は半分まで出来ていた(石原2008)。文久元年(1861)8月29日の辞書成業の賞典は、その数カ月前に草稿を成立させたことに与えられたもので、その草稿が朱で染まるほどの編纂者たちの校正の努力は、さらにその後も長い間続けられていた、と考える。

本部月例会の発表内容要旨

2010

  • 2010/12
  • 一米国人の見た世界的神学者・小山晃佑
  • 堀江 義隆

小山晃佑(1929~2009)は、今日世界的神学者として欧米及びアジアではよく知られているが、日本では影が薄い。この事を小山の友人の古屋安雄は「世界の常識は日本の非常識」と皮肉る。もし、神学の分野にノーベル賞があれば、戦後60数年間に日本から選ばれる人物は、『神の痛みの神学』(1946)の北森嘉蔵(1916~1998)と『水牛の神学』(1974)の小山晃佑の二人であろう。特に小山の知名度は群を抜いている。1998年、アフリカ・ジンバブエで行われたWCC(世界教会協議会)第8回総会における基調講演では、世界中から集まった1000人以上の聴衆に大きな感銘を与えたエピソードは、今やつとに有名である。
振り返れば、小山は終戦後の1952年に日本基督教専門学校(東京神学大学の前身)の卒業を皮切りに、以降海外を学び及び活動の拠点とした。先ず米国ではドリューやプリンストン神学大学などで主に西欧の伝統的神学などを学び、以後1960年よりタイでは日本基督教団派遣宣教師として8年間神学校教師として教えて研鑽を積み、タイ土着の風土に根ざす『水牛の神学』を着々と構築した。その後東南アジア神学院のシンガポールで働き、ニュージーランドのオタゴ大学で東洋の諸宗教を教え、約20年間米国外での宣教活動を続けた後に、小山は米国のNYユニオン神学大学のドナルド・シュライバー学長(現在は、名誉学長)の目に留まり、同学長のたっての要請により電話一本で、NYから小山はスカウトされることになった。かくして、ユニオン神学大学160余年の輝ける歴史において日本人、否アジア人初の専任教授の座に小山はつくことになった。 小山は、1980年にNYに来てから、魚が水を得たようにユニオンを拠点に米国で16年間教え続けヨーロッパ、アフリカ、アジア等を股に掛け世界的神学者としての歩みに磨きをかけていったのである。

  • 2010/11
  • 『英和対訳袖珍辞書』 とMedhurst『英漢字典』 ― 名詞訳語一致度の考察 A~G、  および物産方旧蔵『和蘭字彙』書込み調査 討―
  • 遠藤 智夫

発表者は、これまでの抽象語訳語比較調査において、 『英和対訳袖珍辞書』がMedhurst『英漢字典』を参照したことの顕著な証拠として、Williams『英華韻府歴階』との一致=2.0% 、Morrison『華英・英華字典』(英華の部)との一致=3.5% に対して、Medhurst『英漢字典』との一致=9.8%という比較的高い一致率や、『英和対訳袖珍辞書』編者がMedhurst『英漢字典』を参照したと思われる具体例を提示してきた。また、『和蘭字彙』に出て来なくても、他の先行蘭和等の辞書に既出の語を除くと、『英和対訳袖珍辞書』がMedhurst『英漢字典』を参照した可能性の強い抽象語には、意思・解明・謹慎・極微・事故・事情・信任・崇拝・必要・比喩などが含まれることをも提示してきた。
今回、抽象語に限定せず、対象を普通名詞全てに拡大した。ただし、調査は進行途中で、 『英和対訳袖珍辞書』A~G項の全ての名詞について、ページ数では 『英和対訳袖珍辞書』348/ 953ページ=36.5%、つまり、名詞3割分の調査結果発表である。
調査の結果、複数の漢語訳語が一致する英語見出し語31語(例:Author=開創者・始造者・制作者)、影響がうかがわれる英語見出し語39語(例:、Cannonade(以大砲攻打→大砲ヲ以テ攻打ツ)、難語の一致21語ほかが散見され、それらの一致は偶然とは考えにくいとの感が深まった。

  なお、発表者調査から、『英和対訳袖珍辞書』初版の植物名訳語には、物産方伊藤圭介訳定本・東京国立博物館蔵『和蘭字彙』の影響は見られず、Medhurst『英漢字典』との一致こそ顕著であった。
さいごに、発表者体調不調のため、ハンドアウトの代読をしていただい篠田左多江副会長のご厚意に深謝する。

  • 2010/9
  • 晩年の本田増次郎:姪に宛てた葉書をめぐって
  • 長谷川 勝政

英学者本田増次郎が姪の本田駒子に宛てた葉書類全129通のリストとその一部を紹介し、それらの内容から判明した事実を報告するとともに、本田が晩年に手掛けていた仕事とその意味を探った。
これらの資料から、大正13年から亡くなる大正14年にかけての足跡、ユーモアを愛したが短気でもあったその性格、歴史に残る真実を追求する本田の晩年の姿勢などが明らかになった。
また、本田が最後まで取り組んだ仕事は、英語雑誌『英語青年』の語源に関する連載記事「語学雑俎」と、正倉院の宝物案内である英文のThe ShMsM-In (仮題、未完)であったが、本田が駒子宛ての葉書に記した「タイムに死してイターニテイーなき偽事を棄てゝ歴史美術など新文化の基礎となるものに餘生を捧げたしと思ふ」という一文が、晩年に至って本田がこれらの仕事に専心して行った理由を示唆している。
本田が、時の経過によっても色あせることのない永遠の真実と考えていたものとは、次世代の文化を支える性質を持つものであり、それは、本田にとって、正倉院などの古代美術であり、また歴史の鏡とも言える言葉そのものであった。「たつた一語の中に千年前の歴史や宗教の大眞理や美術の妙趣などが籠つて居る」が故に、その解明が英語研究の醍醐味であると喝破した本田であったから、言葉の森羅万象を扱う「語学雑俎」を、死の直前まで書き続けたものと思われる。

  • 2010/7
  • 破産してもなお外交にこだわり続けた男 齋藤修一郎 ―「失意の外務官僚像」の再検討―
  • 川瀬 健一

明治の第一回文部省官費留学生としてアメリカボストンに学び、帰国後外務省に入って外交官となった齋藤修一郎は、諸事情による明治21年の外務省退官後は「失意の時代」であり、その後彼は没落し明治43年に「失意のうちに死んだ」と言われているが、これは修正が必要である。
彼が明治21年の外務省退官後も様々な形で外交に関っていることは、農商務省時代の井上馨宛の手紙や明治27年の農商務省退官後に韓国政府内部顧問となったことや、皇国殖民会社を設立した彼の経歴や、この間に雑誌「太陽」に投稿した諸論文や翻訳書からもわかる。また彼が没落したのも外交に関ってのことで、明治33年に彼も中心となって結成した満州経営の充実などを主張した帝国党に関る他人の借金を負ってしまった故だ。その時期は明治38年から40年であることが、新たに発見した松本源太郎日記の記述や土肥慶蔵の証言、さらには22万円もの借金を抱えて家財差押さえにあっていたと証言した「蚤坊」こと瀬尾昭の来歴からもわかる。多額の借金を抱えて破産し失意のどん底にあった明治40年秋に懐旧談は語られた故に、自分の人生は外務省退官で終ったと語ったのであろう。
しかしそれでもなお彼が外交にこだわり続けたことは、彼の死の直前の明治43年5月の論文・「米国の侵略的経路」(「日本及日本人」掲載)において、彼はアメリカが世界を我が物にしようとする国であることを歴史的に証明し、満州を巡って日本と対立する所以をこれをもって説き、アメリカの意向に逆らって満州植民地化を推進する小村寿太郎外務大臣らの外交路線を批判したことからもわかる。この論文は近日中に発行予定の「近時米国観」という著作の要点を示したものであるが、この時点で齋藤修一郎が、30年後の日米戦争すら予見している可能性を示し、彼の卓越したアメリカ観を示すものである。
彼は多額の借金を背負って没落してなお外交にこだわり続け、国家の進路を定めようと意気軒昂であった。

  • 2010/5
  • 映画『日本の人々』(Toru's People)に見る、占領期における米国プロテスタント教会の対日意識
  • 武市 一成

本発表においては、1949年にKenco Filmsというニューヨークの映画会社が、The Protestant Film Commissionと協力して制作した映画『日本の人々』(Toru's People)をご覧いただいた。英語タイトルが示すように、松本亨が全体のナビゲーターを務める。アメリカのプロテスタント教会が、日本に派遣する宣教師の教育目的で制作し、専らアメリカ国内で上映された作品とみられる。日本国内で上映された形跡はなく、本発表が、事実上本邦初公開である。全体は、日本の風土を紹介する前半と、「鈴木家」の日常を例に、戦争の荒廃から民主的社会を作り出そうとする日本の姿が描かれる後半にわかれる。
日本人の自然観と運命論的態度が不可分の関係にある事が強調され、それが仏教的諦観と関連付けられる。台風や火災などの自然災害から戦後の廃墟と化した日本の風景へと、映像が接続されており、空襲には言及されるが、このような結果になったのは、日本人の伝統や権威に逆らわない、運命論的精神風土であることが暗示され、結局キリスト教に基づく近代的自我の発達が、日本に民主主義を根付かせるために重要であることを説く。32分ほどのカラー映像であり、アメリカの議会図書館とフィラデルフィアの長老派教会にマスターテープが存在している。

  • 2010/4
  • 『日米週報』(星一がNYで発行した日本語紙)研究余滴
  • 塩崎 智

日本語週刊新聞『日米週報(Japanese American Weekly)』は、1899年から1941年の約40年の長きにわたり、ニューヨーク在住日本人、ニューヨークを訪れた日本人の動向を網羅し、現地米国の世論を詳細に伝え、親日米国人の言動を報道し続けた。日米文化交流史上、貴重なメデイアである。大変残念なことに、日本には、国会図書館を始めとして、ほんの一部しか保存されていない。今回は、ニューヨーク・パブリック・ライブラリーが所蔵するマイクロ・フィルムを通読し、英学史的に関連がある記事(新渡戸稲造、海老名弾上、フルベッキの長男等)の紹介と、創刊者である星一が発刊に至った経緯を、彼の伝記的著作をもとにまとめた。

  • 2010/3
  • 黒田巍編注『日本童話』をめぐって
  • 光畑 隆行

黒田巍編注『日本童話』(1954) の原拠に当たる、Japanese Fairy Tales by Lafcadio Hearn and Others(1918)は、ちりめん本として知られる長谷川武次郎発行のJapanese Fairy Tale Series(1885—1903)と、Grace JamesのGreen Willow and Other Japanese Fairy Tales(1910)を組み合わせたという点で、極めて特異な英訳日本昔話選集である。初版(1918)の全20編のうち、前半の13編はJapanese Fairy Tale Seriesから、後半の7編はGreen Willow and Other Japanese Fairy Tales から取られたものである。この選集には序文がなく、“The versions of the first four tales in this volume are by Lafcadio Hearn. The others are by Grace James, Professor Basil Hall Chamberlain and others. The Lafcadio Hearn tales in this volume are reprinted by arrangement with Captain Mitchell McDonald of the United States Navy, Hearn’s friend and literary executor.”と付記されているだけで、この組み合わせを試みた編集者の意図は不明である。しかしこの日本昔話選集は、ちりめん本のテキストにGrace Jamesの作品が加わることによって、一層多彩に富む一冊となった。この選集に魅了された一人として、『ゲド戦記』の著者であるUrsula K. Le Guinが挙げられる。彼女はこの一冊からインスピレーションを得て、Another Story or A Fisherman of the Inland Sea(1994)というSF作品を創作した。

  • 2010/2
  • 日本近代の工業化の足跡=Japan Todayの研究の一環
  • 田中 順張

元米宣教師ジェームズ・シェアラー教授の『ジャパンズ・アドバンス(躍進する日本)』を紹介。
米ルーテル派派遣の初代宣教師として明治三年来日したシェアラー氏は鍋島藩の九州唐津に落着いて布教したが、種々の事情により健康を害して、帰国し、離婚して学究の生活に入り、日本、アジアの国際情勢について研究。特にわが国の近代化の様子を克明に調べて幾つかの名著を世に出している、この書は晩年の昭和十年の北星堂出版である。
この序文で教授は日本の躍進は目覚ましいもので、今後二十年後にはどの様に発展するか予想が出来ないと述べ、更にアジアでは日本だけが安定した力で、アジアの発展は日本の出方にかかっている。しかし米国は日本の動向を無視していることが、今後米国が日本と不和になると、アジア更に世界にとって悲劇が起こることになり、心配だと述べている。
今回は第八章の「国の基である農業"Nation's Backbone"」を取り上げた。
日本は明治政府になってからは、富国強兵策により重税を課して国力の増強、近代化の道を邁進した。農村では養蚕、漁業、果樹栽培、酪農など多角経営に力を入れ、また水力発電施設の普及により、各種の近代工と鉱山発掘が盛んになった。しかし農村人口の増加のはけ口として海外移民政策が盛んになり、南北米大陸、中国、満州、台湾、南洋諸島に移民が行われた、と著者はその努力を評価している。
しかし昭和に入って冷害が東北地方を襲い、若い女性の人身売買が公然と行われたため、国の農業政策の失敗に失望した陸海軍の士官将校たちによるクーデターが起こり、犬養毅ら政府財界の要人たちが暗殺され、日本は長期戦争に突入して行った、と著者は述べている。

  • 2010/1
  • 『英和対訳袖珍辞書』に見る英学の独り立ち
  • 三好 彰

我国で最初に市販された英和辞書である『英和対訳袖珍辞書』(文久2年(西暦1862)刊)の邦訳語は英語の見出し語の底本になっているPicard英蘭辞書のオランダ語を介して得たとされてきた。しかしオランダ語を介したのでは英語、オランダ語と日本語の間にある次のような問題を回避できない。
 (1)ある英語に対応する1つのオランダ語訳が複数の日本語に対応する場合に、該当する英語に該当する適切な日本語を選び出すことはオランダ語を介しては行えない。例えば英語Thumb, InchにPicard辞書はduimというオランダ語訳を充てているが、オランダ語辞典によればduimに親指、インチ、鍵という大別して3つの意味がある。それゆえThumbに親指という邦訳語を割り付けるにはオランダ語辞典を睨んでいてもできない、英語から訳すしかない。
 (2)ある英単語には対応するオランダ語には無い意味を持つことがあるので、その英語に該当する適切な日本語を選び出すことはオランダ語を介しては行えない。例えば英語のDrayに車と橇の意味があるが、対応するオランダ語wageに橇の意味は無い。
 (3)Picard辞書のオランダ語訳に誤植があるので鵜呑みに出来ない。
(3)は単純な誤植問題であるが、(1)と(2)は英語・オランダ語と日本語の間に関する本質的な問題であり代替手段は存在しない。
それでもPicard辞書の英語(見出し語)に誤植があって、オランダ語訳を使わざるを得ないのでオランダ語から訳した部分が存在する。英語からの邦訳とオランダ語からの邦訳が混ざっているが、その比率は英語から進む改正増補版(慶応2年刊行)の改訂状況も考慮して全体として7:3程度と推定する。
従来の研究は単純な単語合せばかりであった、今後は言語の構造に関わる本質的な問題究明に取り組むべきであると考える。

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